●天文学 てんもんがく
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天文学とは,文字どおり天の文を読み解釈する学問である。地球を取り巻く大気圏の外は宇宙空間がひろがっているが,そのなかに含まれるあらゆる天体とそのすべてを抱括する大宇宙およびそれらを研究する手段を追及する学問を天文学という。天気予報を天文学と混同するが,地球大気のなかの現象を研究する学問で気象学として区別される。天体の影響でひきおこされる地球大気内の現象(たとえば流星,オーロラ)も,天文学のなかで取り扱われる。【天文学の始まり】天文学は最も古く体系をととのえた学問の一つである。その始まりは定かではないが,四季の変化・月日や時間の経過・方角の目標を知るために太陽や月の出没運行・星空の推移などが注目されたものと思われる。同時に天変地異を人間社会に結びつけて考える占星天文学も平行して発達した。前3000年頃,イラク地方に居住したカルデア人の遺跡からは,太陽の運行を示す黄道の12星座の原型を描いた境界石柱(クドウル,英語でバウンダリィ=ストーン)が多く発見されており,同じ条件の日食が18年と11日で繰り返すというサロスの周期がすでに知られていたと思われる証拠もある。
ほとんど同じ時代,古代中国の?帝のころに編纂されたという?典には,4個の星宿(昴・鳥・火・虚)をもって春夏秋冬の季節の目標とする記事が記載されている。また前2128年10月におこったとみられる日食について,天文官の義と和が予報を怠って罰せられたという伝説があり,この頃すでに日食の予報が行われていたことを示唆している。しかし,天文学がしっかりした学問としての体系を整えたのはもう少しのちの時代,エジプト古代王朝時代(前22世紀頃),ピラミッドが建設された頃と考えられる。古代エジプトでは,ナイル河の洪水によってもたらされる上流からの肥沃な土と水によって河口付近に文明の発展が促されたのであるが,エジプト人たちは洪水の季節の予知と土地の区画整理のために,天文学(とくに暦日の計算)・数学(主として幾何学)・測量術・建築技術の開発を余儀なくされた。エジプト人たちは,太陽が最も高くなる夏至の頃,太腸にさきがけて昇る大犬尾α(アルファ)・シリウスを観測し,その前後に洪水がおこることを知ってシリウスがひとめぐりして再び太陽にさきがけて昇るのを1年と定め,シリウス暦(いってみれば太陽暦とそう変わりはない)を作製していた。また日時計の利用やエジプト独特の全天星座の考案も行われていたと考えられる。
もう一つ見逃すことができないのは,天文学の発達は占星学と密接な関係があったことだ。暦日を制定し,自然災害や異変を察知して民衆を慰撫安定させるのは為政者の最大関心事であったから,勢い天変地異を人間の力の及ばない神秘的な天体に責任転嫁するのはきわめて都合のよいことだった。このため,いわゆる天変占星術−−日・月食,月と星の星食接近,惑星の運動,彗星・流星・新星の出現を地上の災害や政変などに結びつけて吉凶を占う学問が,帝王の学問として発達した。天文学の黎明は,占星術と切り離して考えることは不可能である。
【ギリシアの天文学】前9世紀頃から地中海に面したバルカン半島の尖端地域に学問と芸術を好むギリシア人たちが,いわゆるヘレニズム文化の華を開かせた。多くの天文学者・数学者・物理学者が輩出したなかで,とくに先駆者として注目されるのはミレトスのターレス(前624〜前547ごろ)で,イオニア学派の総帥として自然哲学を創始し,カルデア人の知識を基にして日食の回帰を予言(サロス周期)したことで名高い。また地球が球形であることを主張し,小熊座の星々が航海の目標となるとして位置測定を行ったと伝えられる。ついで現れたのはピタゴラス(前572〜前492ごろ)で,彼の名は幾何学の「ピタゴラスの定理」でよく知られているように,ギリシア数学の基礎をつくったといわれ,宇宙全体は数によって統括されているとまで考えた。また彼は,太陽を宇宙の中心に置いて地球を含めた惑星がその周囲をめぐっているとする地動説を考えついたが,自分でもあまり奇妙なアイデアであると思ったのか,弟子たちにその考えを口外することを禁じたといわれている。この考えは弟子のフィロラウス(前480ごろ)や,後代のアリスタルコス(前310〜前230ごろ),エラトステネス(前276〜前194ごろ)に継承されている。とくにアリスタルコスは,太陽・月・地球の三角関係を利用して各天体間の距離を計算しているし,エラトステネスは夏至のとき太陽が真上から照らす土地シエナとアレキサンドリアの太陽高度の差を計測して,また両地の距離を実測することによって地球全周の長さを計算し,現在の実測値と約15%の誤差で値を求めることに成功している。 しかし,自然哲学・物理学・博物学の主流は,アテネ学派の中心となったプラトン(前427〜前347),アリストテレス(前384〜前322)にその地位を占められていた。とくに自然観察を重視し,その理屈を追究するというアリストテレスの自然哲学の精神は,当時の学問の基礎体系をつくりあげ,天文学の発展にも大きな貢献をなし遂げたといえる。都市国家アテネに拠るアテネ学派は,アレクサンドロス大王の死(前323)とともに急速に衰退し,学問の中心は植民地であるアフリカ北部の都市アレキサンドリアに移った。新エジプト王朝のプトレメウス1世は,学問をこの上なく愛して,アレキサンドリアを一大学術文化都市として建設することを考え,ここに大学と図書館を建て,ヨーロッパ中の学者を呼びよせ,文献の収集に努めた。ここから育った学者のなかには数学のエウクレイデス(ユークリッド幾何学の創始者,前300ごろ),物理学のアルキメデス(前287〜前212),数学のアポロニオス(前260〜前200)がおり,天文学者としては前述のアリスタルコス・エラトステネスもここで学んだ学者であったが,ここから育った最大の天文学者はヒッパルコス(前190〜前125ごろ)である。彼の最大の発見は,春分点の位置が黄道上を東から西へと毎年少しずつ移動していくという歳差現象に気づいたことであり,また太陽の運動も等速ではなく季節によって変化することを突きとめた(これは太陽をめぐる地球軌道が長円であり,速度が一様でないため)ことである。さらに前134年,さそり座のなかに明るい新星を発見したことに驚き,1080個の恒星を含む星表を作製している。
ギリシア天文学の有終の美を飾ったのは,西暦150年頃に活躍したクラウディウス=プトレメウスである。彼の生没年は定かではないが,その名の示す通りプトレメウス王朝の血統をひく由緒ある生まれで,大著『メガレ=シンタキシス〈大天文学大系〉』を刊行したことで名高い。彼はこのなかで天動説を数学的に解明し,周転円という球体の表面を惑星や諸天体が回転しながら地球をめぐるという仮説によって,天体の動きを巧妙に説明し,天動説の確立に努めた。以後,1,400年近くのあいだ,この解釈に疑いを抱く科学者はいなかった。またヒッパルコスの星表にもとづいて,さらに目録を校訂し,1022個の恒星と49個(現行は48個)の星座を整理記載したことでも知られる。彼の著書は7〜8世紀ごろ,アラビア語に翻訳されて『アルマゲスト』の名で今日まで残されたので,ギリシア天文学の全貌を知ることができる。もう一つ忘れてならないのは,前3世紀頃からイタリア半島の一円に台頭したローマ帝国は,ギリシアの衰退に交替して隆盛をきわめ,執政ユリウス=カエサル(前102〜前44)のころにその頂点となったが,カエサルは当時混乱していた暦日を規則正しいものとするため,アレキサンドリアの天文学者ソシゲネス(前45ごろ)を顧問として暦法政正を試み,純粋に太陽の運行のみを基本とした太陽暦(いわゆるユリウス暦)を前47年に施行し,1年は365日で12カ月,4分の1の端数は4年に1回の閏日を設けることで解決した。
中世暗黒時代,プトレメウス以後,14世紀にわたって科学の進歩は停滞し,暗黒時代を形成する。天文学は正しい方向を見失って,占星学全盛の時代となる。とくにプトレメウスは『アルマゲスト』以外に『テトラビブロス』と題する膨大な占星学の本を著しており,それ以前の天変占星学を十二宮占星学・人事占星学へと発展させている。つまり今まで天文現象の変化によって占われていた占星術を,太陽の通り道にあたる12星座が,地球上の個々の人々の性格運命を司り一生を支配すると考えたものだ。天文学の進歩にはほとんど寄与することはなかったが,中世の科学思想を考える上でけっして見逃すことはできない。正統な天文学は6世紀末,アラビア半島の一角から現れたムハンマド(マホメット,570〜632)がおこしたイスラーム教の文化圏で細々と生き延びていた。プトレメウスの著書が『アルマゲスト』として訳されたのも,830年頃,バグダッドの天文学者イブン=ユスフによってであるし,9世紀頃から14世紀頃まで,多くの天文学者を輩出し,ルネサンスの息吹きとともにこれらの天文知識がヨーロッパに逆輸入されて,再び花開いたのであった。
【天動説から地動説へ】ヨーロッパの文芸復興,人間性を取り戻す運動が高まったとき,科学の世界も新時代を迎えた。ポーランドのニコラス=コペルニクス(1473〜1543)は,天動説の不備な点に疑問を抱き,宇宙の中心を地球から太陽に置き換え,地球を単なる1個の惑星と考える仮説を立て,『天体回転論』を著した。まさにコペルニクス的転回の発想であったが,世間の人々はたいした関心をもつに至らなかった。法王庁もそれがどんな影響力を及ぼすものかよくわからなかったとみえ,たいして気にした様子もなかった。
地動説に注目した天文学者のなかでデンマークのティコ=ブラエ(1546〜1601)は地球が動いているなら必ずその証拠が見つかるはずと考えて,年周視差の発見を試みた。ティコはデンマークの貴族の生まれでベン島という小島にウラニボルグ(天の城)と名付けた大天文台を築き,そこの城主として当時知られていた最も優れた観測装置を集めて視差を見出そうとしたが,惜しむらく彼の仕事は望遠鏡発明以前に終わり,十分な成果が挙げられなかった。しかし晩年のティコのもとに弟子入りしたドイツのヨハンネス=ケプラー(1571〜1630)は,ティコの残した火星の観測資料を基にして,「惑星運動の三法則」(いわゆる「ケプラーの法則」1618)を発見したし,ケプラーの知友でもあったイタリアのガリレオ=ガリレイ(1564〜1642)は熱心な地動説の支援者であり,1608年にオランダで発明された望遠鏡の原理を理解して,自分で工夫考案し,1610年世界最初の望遠鏡による天体観測に成功した。ガリレイは,月面のクレーター・木星の4個の衛星・太陽の黒点・金星のみちかけ,そして天の川が無数の恒星でできていることを認め,これこそ有力な地動説の証拠と断定した。こうして彼は1632年に『天文学対話』を著して地動説を支持したのであるが,たちまちローマ法王庁の怒りに触れ,宗教裁判にかけられて考えを捨てることを強制された(1633年6月22日)。 けれども,こうした歯止めも新しい科学思想の動きを押えることはできず,地動説は次第に強固なものとなり,ニュートンの万有引力説が現れて確固たる地歩を占めることになった。イギリスのアイザック=ニュートン(1642〜1727)は,リンゴが木から落ちるのも,月が地球をめぐっているのも,地球の中心に向かって働いているまったく同一の力で支配されていると考え,1666年から20年近くもかかってついに大著『プリンキピア』で万有引力の存在を説いた。ニュートンは単に天体力学に貢献しただけではなく,近代物理学のすべての基礎を築いたものである。この時代,天文学の他の分野での発展もめざましく,ガリレイの発見に刺激されて,大望遠鏡の開発が行われ,ポーランドのヘベリウス(1611〜1687),オランダのホイエンス(1629〜1695),フランスのカッシニ(1625〜1712)などが土星のリングや衛星・火星面の模様,土星リングの空隙といった太陽系内の多くの発見を成し遂げている。1672年にはパリ天文台,1673年にはイギリスのグリニッジ天文台が開設され,とくにグリニッジでは地球経度の基準線が決められて時間の基準ともなった。また,イギリスのエドマンド=ハレイ(1656〜1742)は,1682年に出現した大彗星の軌道を万有引力の法則を利用して計算し,一定の周期で太陽をめぐる天体であると断定し,1758年に回帰することを予言してその通りとなった。ハレイ彗星の発見である。またグリニッジ天文台の第3代台長ブラッドリー(1692〜1762)は1727年,年周光行差を発見して地球の動く直接証拠を提出したのであった。
【恒星界から大宇宙へ】18世紀以後,太陽系内の開拓はまだ続いて1781年イギリスのハーシェル(1738〜1822)による天王星の発見,1801年イタリアのピアッジ(1746〜1826)による小惑星の発見,イギリスのアダムス(1819〜1892),フランスのルベリエ(1811〜1877),ドイツのガレ(1812〜1910)の3者の共同による海王星の発見(1846)とめざましい成果があげられていた。しかし一方,観測装置,とくに口径の大きな望遠鏡の発達や,天体の光をスペクトル分解する分光器の開発,またもう少し時代が下がるが写真技術の進歩が天体の謎を解くのに大きな貢献をすることになった。このため観測の領域は,太陽系の外へと拡大されることになった。なかでもハーシェルは,口径1.2mという大反射鏡を自作して,恒星の分布状態を虱つぶしに観察する掃天観測を実施して数多くの天体を発見したばかりでなく,太陽系がヘルクレス星の方向に運動していることや,連星という2個以上の恒星が重力関係をたもって公転している天体なども発見し,さらに天の川宇宙(銀河系)の大きさやだいたいの形を類推までしている。
恒星世界にもう一歩踏み込んだ大発見は,ドイツのベッセル(1784〜1846)によってなされた。ベッセルは1838年白鳥座61番星という恒星の年周視差を測定することに成功し,その距離を11.5光年と見積もった。そのすぐあとでロシアのストルーベ(1793〜1864)がこと座のベガ,翌年にはイギリスのヘンダーソンがケンタウルス座α星の視差測定を行って,それぞれの距離を計算することができた。こうして恒星がわれわれの世界からどのような間隔にあり,どんな分布をしているかが判明したのである。天体のスペクトルを分析する分光学の進歩もめざましく,ヤング(イギリス),フラウンホーファー(ドイツ),キルヒホフ(ドイツ)は太陽スペクトルの分析から太陽を構成する元素を決定し,ハッギンズ(イギリス)は初めて恒星のスペクトル観測に成功して,天体分光学の祖となった。またセッキ(イタリア),ドレイパー(アメリカ),ピカリング(アメリカ)はスペクトルによって多くの恒星の分類目録を考案作製している。
1838年ダゲール(フランス)によって開発された銀板写真術は,天文学にも大きな革命をもたらした。7年後の1845年にはボンド(アメリカ)が月面の世界最初の天体写真を撮影している。間もなく恒星の写真,天体のスペクトル写真,そして色彩写真も得られるようになり,天体の謎はいよいよ深く広く解明されるようになった。もっとも注目されるのは,遠方の天体を観測するための望遠鏡の巨大化・精密化にあった。1843年,イギリスのロス卿は口径1.8mという大反射鏡を作製し,初めて渦巻状の銀河の存在を確認したが,操作はおそろしく不便であり,鏡は鏡銅という合金を使用するため錆びやすく性能は良くなかった。けれどもガラス工業・研磨技術・精密工作の進歩は,1888年アメリカ,リック天文台に90cm屈折鏡,1897年ヤーキス天文台の1m鏡の建設,そして1904年にはウィルソン山天文台に1.5mと2.5m(1917)という巨大な反射望遠鏡が建設されて,深宇宙の研究は大きく飛躍した。このあと,アメリカのカリフォルニア州パロマー山には5m鏡(1948完成),ソ連のセレンチュスカヤ天文台に6m鏡(1976完成)が設置されて威力を誇っている。
観測装置の進歩を背景に,天文学者は銀河系の姿からその外側へと研究の手を進めた。1918年シャプレイ(アメリカ)は,ケファイド型変光星という特殊な恒星の光度を手がかりとして,銀河系の直径を15万光年と計算し,巨大な渦巻形の恒星の大集団であると推定した。同じ頃,ウィルソン山天文台のハッブル(アメリカ)はアンドロメダ銀河の距離を75万光年と見積もっている。1929年,ハッブルは遠方の銀河のスペクトルが赤方偏移するのは後退による光のドプラー効果であると判断し,遠方の銀河ほど速いスピードでわれわれから遠ざかりつつある,大字宙の膨張を裏づける証拠を発見した。当時,アインシュタイン(ドイツ→アメリカ)の静止宇宙モデル,ルメートル(ベルギー)の膨張宇宙説が理論的宇宙像として提出されていたのを観測の上から実証した功績は大きい。1950年にはガモフ(アメリカ)によって,大宇宙はビッグ=バンと呼ばれる大異変によって生成され今でもひろがり続けているという仮説が出されたが,これまた宇宙空間の残存エネルギー(3度Kの黒体放射)を観測したアメリカのペンジアスとウィルソンによって裏づけが得られている。
【不可視領域天文学と宇宙開発】20世紀半ばごろから天文学は今までにないまったく新しい観測手段を開発した。その一つは,人間の目でみられる可視光の範囲外の電波・紫外線・赤外線・X線による天体観測である。1931年,まったく偶然に電気技術者のジャンスキー(アメリカ)は空電の観測中に天体電波を発見し,1942年にはイギリス空軍のレーダーアンテナが太陽からの電波をとらえた。こうして第二次世界大戦後,電子工学の飛躍的な進歩は電波天文学という新分野を開拓し,すばらしい成果を挙げている。先に述べたペンジアス,ウィルソンの発見もその一つであるし,天の川や各種の星雲・星団,あるいは単独の天体(恒星ばかりでなく惑星や彗星も)からの電波を受信し,さらに遠方の銀河,準星「クェーサー」と呼ばれる正体不明の天体からの電波も発見しているし,宇宙人が発信する人工的な電波信号の受信も可能な段階に達している。またX線源天体の観測からは,宇宙の謎の一つといわれるブラック=ホールの存在が確かめられているし,赤外・紫外領域の観測では地上からの光学望遠鏡ではまったく観測不可能な天体を発見することが可能となった。
1957年10月4日,ソ連科学陣が打ちあげた世界最初の人工衛星スプートニク1号は人類に天文学上の新しい時代を拓くことになった。今まで人類が直接触れることのできなかった宇宙空間や他の天体に人工物体を到達させ,無人観測装置を設置し,あるいは人類が自ら他の天体へ着陸することさえ可能とした(1969年7月20日,アポロ11号)。
宇宙開発はスプートニク以後,米ソの競争の形で進められたが,ソ連はまずルーニク2号を月に命中させ(1959年9月15日),ルーニク3号では月の裏側の写真撮影に成功(1959年10月7日),ボストーク1号にはガガーリンが搭乗して世界最初の宇宙飛行に成功した(1961年4月12日)。月面に無人観測装置ルナ9号を着陸させたのもソ連が最初だった(1966年2月3日)。アメリカも負けじと,マーキュリィ,ジェミニ宇宙船で1962〜1966年にかけて宇宙飛行の技術を完成し,1969年にはついにアポロ宇宙船で月着陸を成功させ,1972年までに6回の月着陸を実施し,12人の宇宙飛行士が月面を歩いて月の岩石を採集した。1976年にはバイキング探査体が火星に軟着陸して探査を行い,1979〜1981年にかけては,ボイジャー1,2号が木星と土星に接近して探査を行うなどめざましい成果をあげた。現在はソ連はソユーズ,アメリカはスペース=シャトルという宇宙船を開発して宇宙探査の新時代をつくろうとしている。天文学はこうした時代を迎えて私たちの想像を超えるような発展を遂げようとしている。