●天明の大飢饉 てんめいのだいききん
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江戸時代の四大飢饉(寛永・享保・天明・天保)の一つ。ふつう1782年(天明2)から同8年までの諸国大飢饉をさす。この飢饉の直接的な原因は,連年の冷害・多雨による凶作であるが,藩の財政事情による過重な年貢負担や,商品経済の浸透に伴う商人資本の収奪等の社会的要因も無視できない。天明2年には,瀬戸内・九州・近畿などの地方が凶作となり,尾張以西の地に凶作や米価高騰を原因とする一揆・打毀しが発生した。同3年には一揆・打毀しは,東北地方から中国地方までの各地に発生した。同年7月信濃国の浅間山が大爆発し,上野・信濃両国には多数の被災者を生じさせ,降灰も広範囲にわたって農作物に被害を与えた。浅間山の爆発による微細な灰が大気圏に拡散し,日照量を減少させ,以後1〜2年の冷害の要因となったことも無視できない。翌4年の気候は平年に近づいたが,前年の凶作による飢餓と疫病のため,東北地方などで多数の死者を出している。同5・6年の東北・関東その他の冷害・多雨・洪水が,同7年の飢饉を発生させている。以上のように,凶作の年の翌年前半のいわゆる端境期に,食糧の欠乏や物価の高騰が深刻化し,飢餓状態が激化し,一揆・打毀しが頻発する。津軽藩の場合は,財政の窮乏を解消するため,天明初年から殖産興業政策に着手するが成功せず,金5千両・米3万俵の大損失を出した。この穴埋のため藩は,領内に新検地を行って年貢の増収をはかり,備荒蓄米の供出や藩士の俸禄の3分の1の借上を強行した。同藩は天明2,3年の凶作に際し,領内の危機状態を軽視し,米価高騰は藩財政を好転させる好機として,江戸・大坂への廻米を推進した。一方,米不足に直面した民衆は,廻米の中止と米の安売を要求して,同3年7月各所で打毀しをおこしている。藩は民衆の反抗を押え込んで江戸廻米を強行したため,領内の米は払底し,飢饉の被害を増大させた。天明3年9月〜翌年6月までの津軽藩内の餓死者は8万1702人と記録されている。東北地方の天明の飢饉に関しては,悲惨なエピソードが多い。食物を確保できなくなった農民家族は栄養失調に陥り,疫病にかかったり,家を棄てて流浪しても食物にありつけず死に追いやられた。上層の農民の場合も,金銭が豊富でも米を売ってくれる相手をみつけがたく,また一家のために確保した食料を狙う飢人の攻撃も避けがたく,疫病の流行から身を守ることも困難だった。飢人たちが草木の根や壁土を食べ,犬猫や病死した馬の肉を食べ,さらに死亡した家族や他人の肉を口にしたという話も多数伝えられている。人肉を口にしたという話の真偽については検討の余地があるが,天明の飢餓の惨状から多分にあり得たことである。なお天明の飢饉は程度の差こそあれ,関東・中部・中国・九州などの山間部村落にも発生していた。1786年(天明6)関東地方は,7月には大雨のため利根川が氾濫し,上野・武蔵両国で水害があった。翌天明7年に入ると米価の高騰が著しく,生活に窮迫した江戸の下層住民は,5月19日夜から江戸市中の米屋・商家など多数を打毀した。この騒動が鎮静したのは同月23日である。またこれより先,5月10日〜12日のあいだに大坂市中でも米問屋などの打毀しが発生している。これ以後各地の城下町・宿場町・門前町などで米騒動と打毀しが多発している。天明の飢饉と江戸打毀しが幕府権力に与えた衝撃は大きく,すでに天明6年8月老中職を罷免された田沼意次を支持してきた幕府首脳の勢力は衰え,東北地方の南端の白河藩主で,天明の凶作に際して領民の救済に尽力し,領内から餓死者を出さなかったといわれる松平定信の老中就任(同7年6月)が早められたのである。