●天武天皇 てんむてんのう
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?〜686(?〜朱鳥1)第40代天皇(在位673〜686)。舒明天皇の第3皇子として生まれる。母は皇極(斉明)天皇。天智天皇(中大兄皇子)の実弟にあたり、名はアメノヌナハラオキノマヒトノミコト。一説によると631年(舒明3)の生まれともいわれる。はじめ大海人(おおあま)皇子といい、兄のおこした大化改新とそれに続く内政・外交上の変動期に成長した。657年に兄の娘であるウノノサララ※注1※皇女と結婚。彼女はのちの持統天皇である。661年に母の斉明天皇が死に兄が天智天皇として即位すると、彼も皇太弟となった。さらに668年(天智7)に皇太子となって兄の政治改革を助けたが、兄の子の大友皇子が成長し、天皇の心が皇子に傾くにつれて兄弟に確執が生じはじめ、671年春、天皇が大友皇子を太政大臣に任命したことで、この対立は決定的となった。この年の秋、天智天皇は病いに倒れる。『日本書紀』によれば、このとき病んだ兄は弟の彼に後事を託そうとしたのに対し、兄の全快を祈願するために出家するという理由でそれを断わったとある。吉野にひきこもった彼を、世人は〈虎に翼をつけて放つ〉と評したという。それはつねに兄の陰にかくれていた彼の実力は、すでに世に知られていたのである。同年末に兄が死ぬと、彼は翌672年(弘文1)6月に兵を挙げ、およそ1カ月にわたって畿内とその周辺に乱をおこした。いわゆる壬申の乱である。彼は呪術的な法力をもつ天文遁甲の術を用いるといわれ、反乱軍であるにもかかわらず兵を思うがままにあやつって、神と畏れられた。この乱によって弘文天皇(大友皇子)は自殺に追いこまれた。そして翌673年2月27日、彼は飛鳥の浄御原(きよみはら)宮に即位式をあげて天武天皇となった。そして彼は直に大きな政治改革に着手したが、それは天智天皇時代に形成された豪族政治を組織だった官僚制に再編成しようとするものである。それまで支配体制の特徴は、豪族が臣(おみ)・連(むらじ)・作造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)といった地位を分けあい、ゆるやかな団結によって政治を行おうとすることにある。それに対して天武天皇は、専門的な事務職としての舎人(とねり)を募って緊密な行政機構をつくりあげ、中央集権国家の成立をめざそうとしたのである。その地固めとしてまず着手されたのが、大化改新以来の公地公民制だった。675年には諸氏の部曲を廃止し、王臣の領地を没収した。つづいて封戸と給主の結びつきを断ち、国造の実権を奪って単なる祭主の地位に祭りあげた。また諸国の国界を定め、国司による行政区域を明確にすることで、地方にも行政が行きとどくようにした。条里制を整備し、班田収授制の徹底化を推し進めたのも、これに関連している。681年になると律令体制の強化に着手し、律令の改定と国史の撰修を命じている。684年には、皇室との親疎を基準に姓(かばね)を評価しなおす八色(やくさ)の姓が創始された。また685年には、冠位の階級区分を、聖徳太子以来の12階から60階へと全面的に改めている。それは、親王・諸王12階に諸臣の48階を加えたものであるが、そのとき嫡子の草壁皇子をはじめとする皇子たちにもすべて位を授けており、天皇だけが位をもたない一君万民の思想がここではっきりと打ちだされたのである。686年の彼の死によって律令の改定は一時途絶したが、持統天皇によって689年から令が施行され、701年には刑部(おさかべ)親王、藤原不比等らの編纂した大宝律令が完成している。この大宝律令は天智朝以来の法典編纂事業の集大成であり、759年の養老律令の施行まで律令国家盛期の基本法典となるものであった。また史書の撰集も、712年『古事記』、720年の『日本書紀』として実を結んでいる。ここに大化改新の詔に示された律令国家は一応の完成をみ、古代東アジアの特質を色濃くもつ中央集権体制が登場するものである。陵墓は現在の奈良県高市郡明日香村野口字王墓にあり、檜隈大内陵という。
