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●デンマーク

ヨーロッパ デンマーク王国 AD 

 正式国名デンマーク王国。面積4万3,000平方km。人口約521万人(1996年)。首都コペンハーゲン。立憲君主国で,元首はマルグレーテ女王。“デンマーク”はデーン人のマルク,すなわちデーン人の住む地域の意味である。デンマークはデンマーク本土と自治領である世界最大の島グリーンランド(218万平方km)とフェロー諸島(1,400平方km)からなる。デンマーク本土はユトランド半島フュン島シェラン島ボーンホルム島など大小500余の島嶼から構成され,南でドイツと国境を接するが,東はバルト海,西は大西洋,北はスカゲラク海峡に面している。このように海に囲まれ,さらに最も高い所で海抜173mと非常に平坦な本土は,加えてメキシコ湾流と西風の影響も受けることから,高緯度に位置するにもかかわらず,非常に温和な海洋性気侯を示す(最寒の2月の平均気温−0.4度,最暖の7月で16.6度,年平均降雨量660mm前後)。人種は大部分が北ゲルマン系のデンマーク人だが,グリーンランドを中心に数万のグリーンランド人(エスキモー)がいる。公用語はデンマーク語。

【歴史・ヴァイキング時代】文献史料に登場する最初のデンマーク王は8世紀前半のオンゲンドウスだが,彼についてはまったく不明である。ヴァイキング時代の始まりとほぼ同時期,すなわち8世紀末,カール大帝治下北方へ勢力を拡大したフランス王国と国境を接することになったデンマークは,ゴッドフレッド王(在位?〜810)下で統一された。しかし彼の殺害から10世紀前半は割拠する地方豪族間の対立・抗争の時代であったと推測される。10世紀の930年代に登場したゴルム老王(在位?〜950ごろ)は,ユトランド半島中部のイェリングを本拠地に全国統一に乗り出し,その息子ハラルド青歯王(在位950ごろ〜985ごろ)が現在のスウェーデン南部地域を含む全土の統一をほぼ成し遂げた。つづいてスヴェン1世(在位985ごろ〜1014)はイングランド征服を達成したが,その直後死去した。そこでクヌード大王(在位1014〜35)は父の意志を引き継いだのみならず,これを発展させ,1030年までにデンマーク・イングランド・ノルウェーを支配下に置く,いわゆる北海帝国を樹立したが,この帝国もクヌードの死後まもなく瓦解した。ヴァイキング時代は1060年ごろ終焉し,デンマークは中世に移行した。

【中世】12世紀半ば内乱を平定し国王となったヴァルデマー1世(在位1157〜82)は,強力な王権の確立に努力するとともに,バルト海辺の支配をもめざした。さらにヴァルデマー2世勝利王,在位1202〜1241)は数度にわたる遠征を敢行,バルト海支配という目的を達成した。しかし1223年彼のドイツ人家臣の悪だくみにより支配地のほとんどを喪失し,その奪回をめざした戦いにも敗北した。ヴァルデマー2世の死後,王位を継承した彼の息子たちと教会との関係は険悪化し,さらに貴族との対立も加わり,デンマークでは約1世紀の間内乱時代がつづくことになった。とくに,1320年代にはほぼ全土がホルシュタイン諸伯に領有されるところとなり,8年間(1332〜40)の空位時代も出現した。1340年即位したヴァルデマー4世アッタダー(在位1340〜1375)はデンマークの再興をめざして勢力的かつ強引な政策を実施し,1360年には初期の目的を達成した。しかし彼の政策に強い反発を示していたデンマーク貴族は,ハンザ都市やスウェーデン貴族と同盟を結びヴァルデマー4世に対抗したため,王は亡命を余儀なくされた。1370年のシュトラールズントの和約成立後帰国した王は,再度デンマーク再興への努力を行った。1375年ヴァルデマー4世が没すると,彼の末娘でノルウェー王ホーコン6世と結婚していたマルグレーテは,5歳の一人息子オールフ(在位1376〜87)を王位につけ,自らは摂政として王権の強化に尽力した。1380年ホーコン6世の死により,オールフがノルウェー王を兼任し,400年以上継続することになるデンマーク・ノルウェー連合王国がここに成立した。1380年代中ごろに始まるスウェーデン王と貴族の対立を巧みに利用し,スウェーデン支配の足掛かりを得たマルグレーテは,オールフの急死(1387)後養子に迎えた実姉の孫ポンメルンのエリックを1396年までに北欧3国の王位につけ,翌年いわゆるカルマル連合を成立させた。1412年マルグレーテの死により実権を握ったエリックは,貴族との対立から1439年廃位させられ,バイエルンのクリストファーが王となった。しかし彼は世継ぎのないまま1448年死去したので,オルデンブルク家クリスティアン1世(在位1448〜81)が登位し,これ以降400年以上継続することになるオーレンボー朝が成立した。1520年スウェーデンを征服したクリスティアン2世(在位1513〜23)は,同年スウェーデン貴族や高位聖職者を多数殺害した(ストックホルムの血浴)。これを契機に,グスタフ=ヴァーサが反乱をおこし,1523年スウェーデン国王に推戴されたことから,15世紀中期以降激しい内部対立を演じてきたカルマル連合は,ここに崩壊した。

【近代】1534年オルデンブルク伯クリストファーが,1523年追放されたクリスティアン2世の復位を要求してデンマークに侵攻,伯爵戦争と呼ばれる内戦が勃発した。2年後内戦に勝利を収めたクリスティアン3世(在位1534〜59)は,荒廃した国土と危機に瀕した国家財政を再建すべく,教会領の没収を行い,宗教改革を継行した。16世紀後半から17世紀前半にかけて,デンマークはスウェーデンとバルト海の覇権を激しく争い,フレデリック2世(在位1559〜88)は北方七年戦争(1563〜70)を,クリスティアン4世(在位1588〜1648)はカルマル戦争を行った。彼はさらに三十年戦争にも介入したが,ワレンシュタイン軍のユトランド半島侵攻を許し,国家の危機を招いた。1643〜45年のいわゆるトーステンソン戦争でもスウェーデンに敗れ,ゴットランドなどを割譲して,バルト海の覇権をスウェーデンに奪われた。国内的には東インド会社を設立するなどの重商主義政策を実施した。息子のフレデリック3世(在位1648〜70)はスウェーデンへの復讐を試みた(1657〜60)が,スカンディナヴィア半島にあった全デンマーク領をスウェーデンに奪われた。この戦争で生じた国家財政の危機に対処すべく召集された身分制議会で,フレデリック3世は非特権階級を味方につけ,世襲にもとづく絶対王制の導入に成功した。そして度量衡の統一や常備軍の整備など一連の中央集権化政策を推進した。北方戦争(1700〜21)後,デンマークは18世紀を通して平和な時代を享受した。とくに J. H. E. ベアンストーフや彼の甥 A. P. ベアンストーフのもとで,七年戦争やアメリカ独立戦争において終始中立を堅持する一方,交戦国との通商で莫大な利益をあげ,対外貿易はこの時代全盛期を迎えるに至った。国内では1788年,啓蒙専制君主クリスティアン7世(在位1766〜1808)が農民解放をめざして,1733年の「土地緊縛法」廃止の勅令を公布した。

【19世紀】フランス革命につづくナポレオン戦争では,中立を堅持することが困難となったデンマークは,イギリスとの対立から1807年以降ナポレオン側についたが,ナポレオンの敗北で,1814年キール条約によりノルウェーを失った。19世紀前半の民族ロマン主義から派生した政治的スカンディナヴィア主義運動やフランスの二月革命は,デンマークにも大きな影響を及ぼし,シュレスヴィヒ公爵領のあり方をめぐり,デンマーク系の自由主義者のあいだで深刻な対立が発生した。こうした情勢下で,1848年3月即位まもないフレデリック7世(在位1848〜63)は立憲君主たることを宣言し,絶対王制は終焉し,翌年にはいわゆる六月憲法が制定された。この憲法には二院制の導入,救貧の対象者を除く30歳以上の男子による選挙,出版・信教・集会の自由,徴兵制や義務教育が規定されていた。1848年に始まった第1次シュレスヴィヒ戦争は1850年一応終結したが,問題は何一つ解決しなかった。そこで1864年2月第2次シュレスヴィヒ戦争がおこり,プロイセン・オーストリアの圧倒的に優勢な軍事力の前に敗北したデンマークは,同年10月30日のウィーン条約でホルシュタイン=ラウエンブルクおよびシュレスヴィヒを喪失した。この敗北は歴史的大変革を余儀なくされ,今日のデンマークの出発点となった。工業化への道を歩み始めた1870年代以降社会主義運動も活発となり,1871年に社会民主党が誕生し,1884年初めて議員を下院に送った。

【20世紀前半】第一次世界大戦では,困難な事態に直面しつつも中立を堅持し,ドイツの敗戦の結果,1920年第2次シュレスヴィヒ戦争の際失ったシュレスヴィヒの一部を回復した。1929年に始まる世界的恐慌はデンマークをも襲い,農産物の輸出の激減や失業者の増大を引きおこした。これに対し,社会民主党のスタウニング首相(1873〜1942)は,外国貿易の管理・通貨であるクローネの切り下げ・ストライキとロックアウトの同時禁止などを断行すると同時に,社会改革の実施を公約することで,この難局を乗り切った。第二次世界大戦が勃発すると,デンマークは中立を宣言したが,1940年4月9日ドイツ軍の侵攻を受け,ほとんど無抵抗のうちに占領された。レジスタンス運動は当初散発的なものであったが,1943年8月にドイツの軍政が施行されると,9月にレジスタンスの全国組織が生まれ,終戦直前にはその勢力は約5万人に達していた。1945年5月4日デンマークは解放された。

【戦後】第二次世界大戦の苦い体験から中立政策を放棄したデンマークは,戦後の厳しい東西対立のなかで,マーシャル=プラン受け入れを決意し,また北欧3王国による“共同防衛同盟”交渉が不調に終わると,1949年4月北大西洋条約機構(NATO)に加盟し,西側陣営の一員として歩むことになった。他方国際機関による国際平和の維持にも期待するデンマークは,国際連合の原加盟国として,とくに国連の平和維持活動にはほかの北欧諸国同様積極的に参加している。経済面でも北欧諸国同様にヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)に加盟し,さらに拡大ECの成立に際しては,国民投票で63.5%の賛成を得て,1973年1月これに参加した。内政面では7年に及ぶ検討を経て1953年新憲法が成立した。この憲法では上院の廃止による一院制の導入,女性の王位相続の承認,フェロー諸島並びにグリーンランド住民に対する本土並みの権利の付与などが盛り込まれた。1979年にはグリーンランドの完全自治が認められた。経済が順調な拡大を遂げた1950年代・1960年代には,社会民主党による各種の社会福祉政策が実施されたが,1970年代の世界的不況のもとで貿易依存度のきわめて高いデンマークは,物価の急上昇・失業者の増加・クローネの下落・重税などの多くの難問を抱え,厳しい政治的・経済的状況下にあるといえよう。

【宗教】キリスト教化の試みは,9世紀中ごろ“北欧の使徒”と呼ばれるフランス人修道士アンスガルによって初めて行われたが,大した成果は収めなかった。しかし彼の伝道を通してデンマークはドイツのハンブルク・ブレーメン大司教の管轄下に置かれることになった。940年代には3司教座が設置され,960年ごろのハラルド青歯王の改宗で,デンマークはキリスト教国となった。スヴェン=エストリッドセン王(在位1047〜74)以降歴代の国王の手厚い保護によって,順調な拡大・発展を遂げたデンマーク教会は,1103年ごろ北欧最初の大司教座がルンドに設置されたことから,250年に及ぶブレーメン教会の支配から自立した。1536年クリスティアン3世によって宗教改革が断行された。現在は福音ルーテル派が大多数を占める。

【文学】デンマーク最古の文学というべきものは,600に及ぶ石や木片に刻まれたルーン銘文であり,その多くはヴァイキング時代のものである。1000年代半ば以降キリスト教が浸透するとともに,まず外国人聖職者によって聖人伝や年代記が著された。ついで1150年ごろデンマーク人による最初の著作物が現れた。ヴァルデマー1世・2世時代には注目すべきラテン語著書が成立した。スヴェン=アッゲセンが『デンマーク王国略史』を,サクソ=グラマティクスが『デーン人の事蹟』を著した。とくに後者は16巻からなる大著で,中世ヨーロッパ文学上の傑作である。1300年以降文書・書簡・書籍の数が増大し,地方法や教会法の成文化も行われたが,それらの多くは古デンマーク語で書かれるようになった。15世紀末に印刷術が導入された。宗教改革期の文学的偉業は人文主義者ペーダーセンパラディウスらによる『クリスティアン3世欽定訳聖書』(1550)であり,これはまたデンマーク語の発展にとっても重要なものであった。18世前半ホルベア(1684〜1754)は数多くの喜劇を創作し,“デンマークのモリエール”と称されたが,歴史学の分野でも偉大な業績を残した。19世紀前半になると,デンマークのロマン主義の開祖で大詩人のエーレンシュレーヤー(1779〜1850),童話作家として世界的に著名なアンデルセン(1805〜1875),日本でもよく知られた哲学者キルケゴール(1813〜1855),牧師であると同時に神学者・詩人・教育者・歴史家としても活躍したグルントヴィ(1783〜1872)らを輩出した。19世紀後半には自然主義文学ブランデス(1842〜1927)が文学界に大きな影響を与えた。彼の思想を最初に受け継いだ作家がヤコブセン(1847〜1885)であり,1919年ノーベル賞を授与されたポントピダン(1857〜1943)が彼につづいた。プロレタリア文学ではアナセン=ネクセ(1869〜1954)が代表的作家である。象徴主義の作家としては,カトリックに改宗し,聖人伝を著したヨーエンセン(1866〜1956)が名高い。イエンセン(1873〜1950)はデンマークが生んだ今世紀最大の作家で,1944年ノーベル賞を受けた。その他ナチスの銃弾に倒れた劇作家のムンク(1898〜1944),幻想的で異国情緒と異教的要素を含む作風のブリクセン(1885〜1962)などがよく知られている。

【学術および芸術】文科方面では,先史考古学の分野で石器・青銅器・鉄器時代という3時期区分法を確立したトムセン(1788〜1865),比較言語学のラスク(1797〜1832),英語学のイエスパーセン(1860〜1943)などがあり,自然科学の分野では16世紀に天文学の領域で活躍したブラーヘ(1546〜1601)やノーベル賞を授与された理論物理学のボーア(1885〜1962)が著名である。探検家では,グリーンランドや極北アメリカを学術調査したラスムセン(1879〜1933)がいる。大学は1479年コペンハーゲンに創設された。またグルントヴィの創案になる国民的な青年学校である国民高等学校の最初のものが,1844年北シュレスヴィヒレゼングに設立された。彫刻では19世紀前半を中心にトーヴァルセン(1770〜1844)が活躍し,ヨーロッパで名声を博した。彼が寄贈した作品は,1848年竣工したコペンハーゲントーヴァルセン美術館に収蔵されている。音楽家ではニールセン(1865〜1931)が世界的に名高い。

〔参考文献〕角田文衛編『北欧史』1970,山川出版社

百瀬宏『北欧現代史』1980,山川出版社

フレデリック=デュラン,毛利三彌・尾崎和郎共訳『北欧文学史』1977,白水社

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