●天保の改革 てんぽうのかいかく
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徳川時代後期,天保年間(1830〜1843)に行われた幕政の改革と,諸藩の藩政改革の総称。領主財政の破綻,物価騰貴,一揆などの社会的動揺,対外危機などを克服して,幕藩体制の維持と存続を目指した改革。享保・寛政の改革とともに,江戸時代の三大改革とも称される。【幕府の改革】1841年(天保12)大御所の徳川家斉が没するのを機に,老中水野忠邦の主導によって改革が始まった。忠邦は,前代までの放慢と奢侈の風潮を改め,享保と寛政の時代に復帰することを目標において,綱紀粛正・風俗匡正・倹約励行に力を入れた。とくに江戸市中に町触れを発し,町人の奢侈を厳しく取り締まるほか,芝居小屋を郊外に移したり寄席を閉鎖するなど風俗匡正に名をかりて庶民の娯楽に制限を加え,これに違反するものは,市中に放った隠密が摘発して厳罰に処した。天保飢饉に端を発した物価騰貴を抑えることも改革の重要課題であった。幕府は,物価上昇の原因が江戸十組問屋仲間の流通独占にあると考え,1841年12月に株仲間解散令を発し,江戸および主要都市において問屋・株仲間による商取引を禁じた。幕府は商人たちの自由競争による取り引きによって物価は下ると期待したが,実際には従来の商品流通機構が解体したために,かえって混乱をまねき意図した効果はあがらなかった。そこで幕府は,直接小売価格の引き下げを命じたり,地代・店賃・日雇給金などを強制的に抑制するようつとめたので,景気は低落し,市中は火の消えたようになった。農村では,荒廃地を回復し年貢を強化することが目標であるが,まず人返し令を発して農村の労働力を確保することにつとめた。また代官所支配の整備にも力を注ぎ,従来江戸詰のまま1,2年で交替する代官が多かったのを改め,長期間同一の任地にあって陣屋在住で農政にあたるようにした。さらに全国の幕領農村で,耕地の検分・新開地の高入れを行い,年貢の増徴をはかる「御取箇御改正」に着手したが,途中忠邦の失脚によって中止された。
【上知令と改革の挫折】1843年6月,幕府は江戸・大坂10里四方の地にある大名領・旗本領を上知させて幕府直轄地とし,ほかに代替地を与えるという上知令を発した。分散していた幕領地を,比較的に生産力が高く,かつ政治的にも重要な地域に集中させようとするものであり,上述の代官支配強化と相まって,幕領の再編強化を目指す計画であった。しかし大名・旗本らは先祖代々慣れ親しんだ土地を失うことを嫌い,農民たちのあいだでも反対の動きがみえ,さらに関係の領地をもつ御三家や老中のあいだからも強い批判が生まれたため,ついに上知令は撤回された。これを推進してきた水野忠邦は,1843年9月に老中を罷免され,ここに天保改革は挫折した。このように幕府の天保の改革は,復古的精神による大胆な政策を相次いで提起したところに特徴があるが,政策と現実とのギャップは如何ともしがたく,幕藩体制の危機は一層鮮明になった。
【諸藩の改革】幕政改革とならんで有力諸藩でも藩政の危機に際して独自な改革が行われた。長州藩では天保初年に藩専売に反対する大一揆が起こり藩政の危機を迎えたが,1838年には村田清風を抜擢して改革を始めた。専売仕法を緩和したり,港に越荷方をおいて利潤をあげたり,また城下町商人を抑えて藩債の解消につとめた。薩摩藩は調所廣郷を登用し,三都の豪商からの借入金を250年賦償還という強行手段で整理するとともに,奄美大島の甘蔗栽培に専売制をしいたり,琉球との密貿易によって藩財政の再建につとめた。肥前藩では,陶器の専売制を強化したり,商人地主に対抗する均田制を採用した。水戸藩では徳川斉昭の主導によって領内検地を行い,また領内特産物の育成と販売を奨励した。これら諸藩の改革に共通する点として,藩財政の再建という目標から改革が始まったが,とくに抑商主義の立場で遂行されたこと,これまでの藩執行部に代わって,中下層から能力を具えた人材が藩政に登場したことがあげられ,いずれも幕政改革にはみられない特徴である。この改革に成功した諸藩は,幕末の動乱期に政治的に活躍する足がかりを築いた。