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●天平時代美術 てんぴょうじだいびじゅつ

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 天平時代とは奈良時代の後期,すなわち平城(奈良)に都のあった710年から794年に至る85年の期間をさしていう。文化史,とくに美術史上の時代を呼ぶ言葉として,ひろく用いられている。なお「天平式」とは,天平時代の美術様式を呼ぶ言葉であり,天平文化とは,天平時代を中心とする奈良時代の文化を称していう言葉である。すなわち,弘仁・貞観期の前であるとともに,白鳳期のあとの時代である。国家的な規模で,盛唐期の文化を受け入れ,彫刻および建築ならびに絵画から工芸に至るまで,すべての部門において,技術的な習練を高度にまで高めた結果として,ようやくのことで,古典的様式をつくり上げることに見事に成功し,日本美術に待望の大陸的・仏教的な特色を導入し,したがって天平美術の特色は,やはりこれらの点に存するといえよう。

 元来,美術史上において,この優美な語感を有する「天平時代」という言葉は生まれ,つくられた後も広く普及していったのであった。天平美術の特色は,文学や仏教におけるよりも,むしろ造型美術の分野において目立っている。すなわち,天平美術における優れた建築物は,たとえば,藤原京から奈良京に移して建築された大安寺および元興寺ならびに薬師寺と興福寺などは,今もわれわれの目を楽しませてくれる天平時代の建造物である。さらに飛鳥の法隆寺はあまりにも有名であって,日本人はもちろんのこと,遠く外国人にまで激賞されている。なお,天平時代において新しく建築された東西両大寺を忘れるわけにはいかないことは,もちろんである。仏教が盛大になるに伴って,寺をつくったり仏をつくったりすることが,全国的に盛んに行われるようになったとはいえ,優れた造寺と造仏の技術者は,やはり数が足りなかったし,彼らは,需要が最もひんぱんだった奈良京の住人が多かった。造仏と造寺の出張や,かけもちの記録は,古文書にもみうけられる。薬師寺式および東大寺式ならびに大安寺式と,堂搭の配置そのものも,いろいろと移りかわりがあった。もともと,寺院の中心的な存在として,その意味と役割とを,とくに重視されていた“塔”が,最初は,回廊のそとに移されてしまい,その次には南大門の外部へとまるで追い出されるかのように移されていき,最初の寺院の中心的存在から,やがては単なる装飾的な建物へと,時代の推移とともにしだいに変化していくのも,諸行無常を説く仏教の象徴的な建物であるだけに,やはり歴史の皮肉を感じないわけにはいかない。これは,しかしながら,日本人が創造した仏教建築の配置の変化というよりは,唐における配置の変化に追随して,このように変えていったのかもしれないし,そうだとすると,多少別な意味をもって考えられる。

 天平後期における唐招提寺のなかに安置されている仏像が,同寺の金堂とともに,ひどく大陸的でのびのびとしていながら,一方では,日本人に対して新鮮な驚きと重厚な印象とを与えるのは,唐の高僧であった鑑真(がんじん)が,753年(天平勝宝5)一行24名とともに日本へ到着し,759年(天平宝字3)8月において,戒院を設立して招提寺(唐寺・唐招提寺ともいう)のもとを築き,763年5月において,77歳で惜しくも眠るがごとく大往生をとげたという,この鑑真と一緒に唐からはるばる海を渡ってきた,優秀な唐の技術者の自信作であるからではないだろうか。これとは反対に,講堂が明るく思われるのは,単に講堂が本来要求されている機能とか,使用目的とかに,確かに結果的には合っているとはいうものの,よくよく考えてみると,元来大内裏(だいだいり)からはるばると苦労を重ねながら,朝集堂を移してきて,やがて建てかえたものであったから,唐様式の大陸的な重厚性とは対照的に,日本人独特の優美な開放性とは無関係でないものと思われる。

 天平時代の彫刻は,唐代初期の影響が,天平前の白鳳時代において色濃く認められることを否定しがたい。初唐において特に顕著にみうけられる,均斉のとれたあの豊満ともいうべき水々しいまでの豊かさ。一方では理想化されながら,他方では写実的で人間的な天平時代における彫刻は,技術面においては,確かに前代より進歩のあとをわれわれに示しているが,一方失われたものもある。その一つは,あのわれわれ日本人の心をひきつけてやまない,例の白鳳の仏の微笑である。仏の頬に宿っていた美しく,しかも宗教的な慈悲をたたえたあの永遠のほほえみである。技術的には,進歩と退歩を繰り返し重ね合いながら,後期における仏像の表情はだんだんと暗くなっていく。乱作のためか,技術の低下の結果だろうか,後期になるとともに迫力は乏しくなり,やがて硬直化していくのをとどめることはできなかったのである。天平時代における仏像の優れた作は非常に多い。たとえば第一に,東大寺の法華堂における不空羂索(ふくうけんさく)その他の仏像があるとともに,時代を下ると,日光・月光(がっこう)も健在でその美を誇っているし,戒壇院の四天王の雄々しさ,先に述べた唐招提寺の鑒真和尚(わじょう)の肖像などは,まるで生ける人のごとくであって,この天平時代は,写実と理想化のバランスがうまくとれるとともに,それらが高度の美意識にまで高揚し,昇華していったのが,天平美術における仏像の姿であろう。この美を生み出した原動力は,その一つは仏教のもつ力とともに唐帝国の文化的な実力,日本文化が示した前進的な意欲と総合力などいろいろあろうが,やはり一言でいうならば,このときの時代精神が,これら仏像のなかに宿り結集して,これらの優れた美の世界を生み出したのであった。

 これら仏像を,次にその材質のうえから少し分析してみよう。まず材料として,その主なものは,木彫と金銅などのほかに,鑑真像にも使用された乾漆その他,塑および摶(せん)など,ほとんどすべての材料を用いて,多数の仏像をつくり上げている点も,日本における彫刻史上の一大壮観であるとともに,著しい特色でもある。

 天平時代における絵画で,現代まで残されているものとしては,たとえば,正倉院に保管されている樹下美人および薬師寺における吉祥天ならびに過去現在因果経などが目立っているが,全体的にみて多く残ったとはいえないであろう。この時代において仏菩薩および人間像なども,当然のことながら多数描かれていたはずであるし,これらの多くのものは,この時代における彫刻がそうであったように,やはり量感にあふれる絵画であって,この時代の人々の胸を打つ迫力のある姿を示していたことと思われる。また下絵における力強い線の存在は,これから後になってよく描かれるようになった山水画の技法につながるものがあるといえよう。

 天平時代における書道は,この時代における神さま的な書道の第一人者としては,王羲之・献之の存在が他を圧して光っている。なお羲之と書いて「手師(てし)」と『万葉集』において読ませているのも面白い。この時代における仏教の盛んになるにつれて写経もまた大いに行われるようになり,達筆を誇る人々も多数輩出している。この時代を招来する前に,すでに述べた鑑真は,唐の国から天台の経典はもちろんのことだが,このほかにも王羲之・献之父子の真蹟をはじめとする品々,また唐招提寺の仏像および建築などを伝え,日本の美術史上にも多大の貢献をし,注目すべき役割を果たした。この時代の工芸の優れた品々は,聖武天皇遺愛の品として,今も東大寺の正倉院宝庫に大切に保管されている。

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