●天皇機関説 てんのうきかんせつ
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国家は法律上の人格をもっている法人であり,この法人としての国家が主権の主体として統治権をもつ。そして天皇は主権をもたないままに,法人である国家の最高機関としてその意をうけて権能を振るう,つまり統治を行う,とする憲法学説。明治憲法を解釈するにドイツの国家法人説をもってしたもの。国家法人説は政治的には君主制と民主制の妥協の上に成立したもので,君主と人民とのあいだに成立する支配関係をあいまいなものとしている。そのため,天皇機関説においては,法人としての国家の解釈および国家内の天皇と議会の関係あるいは位置づけの相違によって,実際にはいくつかの説に分かれる。第1は,大日本帝国憲法の体制(=天皇制)を認め,天皇は国家の最高機関であるから絶対的な権力をもつと説く天皇機関説である。ここでは,天皇が最高機関であるということが前提であるため,議会の地位は非常に消極的なものでしかないとされる。この考え方は,天皇主権説を唱える以前の上杉慎吉の解釈などにみられる。2番目は,第1のものと主張は類似しているが,前提を異にするもので,北一輝の主張などにみられる説である。すなわち,国家の主権の絶対性を説くことによって,最高機関としての天皇の地位を相対化する天皇機関説である。ここでは,明治憲法における体制を問題とせず(=国体を問題とせず),国家そのものを絶対的存在とするため,天皇が国家の意志を体現している限りにおいて存在意義が認められ,権力を行使することが可能となる。しかし,意義を失えばその地位を失うこととなる。議会についても同様である。この説においては,天皇制は与件ではなく,天皇そのものの絶対性は主張されないゆえに天皇否定論が生じる可能性も潜んでいる。第3の天皇機関説は,ドイツにおいて国家法人説が意図したものに最も近い形であり,日本の天皇機関説を代表するものである。すなわち,明治憲法体制(天皇制)を認めつつも天皇に絶対無限の権力が存するとする立場に反対し国家法人説を理論的基礎として明治憲法を立憲主義的・自由主義的に解釈しようとしたもので,天皇の独裁的権能を狭く解釈し国務大臣の補弼を広く解釈し,国民の意志を一応代表する帝国議会の権限をより一層認めようとする学説である。この学説は美濃部達吉に代表されている。ただし議会の位置づけの違いによってニュアンスがそれぞれ異なってくる。このタイプの天皇機関説は,天皇制自体の枠組を認めてはいるが,天皇の主権を認めず,権限を縮小しようとする点で,天皇主権説に立つ学者や,国家主義者などと対立し,ために両者のあいだに論争がおこった。1910年代の上杉慎吉と美濃部達吉の間にたたかわされたその論争は,社会的影響の最も大きかったもので,上杉が美濃部の著書『憲法講話』を攻撃したところから始まった。上杉は,天皇に主権があるという国体の概念に法的な意味だけでなく,日本固有の歴史的・倫理的意味をもたせ,天皇を絶対視し,美濃部の天皇機関説は日本を民主国とし,天皇を人民の使用人とみなすものであると強く非難した。これにより,以前から美濃部は上杉の思想について国体を絶対視するもので,専制的思想を鼓吹し国民の権利を抑え,その完全な服従を要求する主張であると批判していたので,ただちに反撃した。そして自説は,日本が君主国であることを否定し民主国とするものではない,また天皇を人民の使用人とするものではないと論じた。論争は1913年まで続けられ,さらに穂積八束・浮田和民などトップクラスの学者を巻き込み,天下を二分する大論争へ展開していった。これを通じ,美濃部の学説は大正デモクラシーの思潮のなかで,いわば正統の憲法解釈として定着し,かつまたデモクラシー運動の理論的基礎ともなった。しかし1930年代に入り,ファシズム的傾向が強まると,軍部や国家主義者によって反国家的であると非難され,1935年国体明徴運動がおこった結果,美濃部は貴族院議員の職を辞し,その学説もまったく行われなくなった。すなわち,憲法解釈論上の定説・主流と,異説・傍流が約20年でちょうど逆転したわけである。なお,北一輝のような憲法解釈は,1920〜1930年代に一部のファシストによって支持されたのみであった。〔参考文献〕宮本盛太郎『天皇機関説の周辺』1980,有斐閣