●天皇 てんのう
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【スメラミコト】日本の主権者の最古のものはオホキミ(大王)で,熊本県玉名郡菊水町江田の船山古墳出土の大刀銘に「治天皇獲□□□鹵大王世」とある。これは雄略天皇が大王とよばれていたことを証明する。各地の首長がワケ・キミとよばれ,それらを総合するものをオホキミとよんだ。そのため和歌にオホキミが用いられている。天皇は地皇・泰皇と共に中国で用いられたもの,道教で天帝の意に用いられ,『日本書紀』の推古16年(608)に「東天皇」と用いられ,法隆寺薬師造像銘や元興寺縁起に大王天皇,先帝のことを天皇と用いる。その他にアラヒトガミ・アキツミカミの語も用いられている。とくに壬申の乱(672)ごろより天皇の権力が上昇し,神格化され,天武の詔によって国史の編纂が開始されるに至り,天皇は皇祖天照大神の嫡系の子孫が強調され,天皇をスメミマノミコトとよぶに至った。そして臣下に対してはスメラミコト・スメロギと用いられている。天皇は十善の主,十善の王というのは鎮護国家に見合うものである。天皇の尊称には,古語でウエ(上),漢語で上・主上・皇上・聖上・今上・当代・当今・至尊・南面・九重・一人とある。スメラミコトの他に万乗・御・金輪のごときものがあり,皇居をあらわすものとして,ミカド・ウチ・オホヤケ・公家・公方・天朝禁裏・内裏・御所・国家・陛下・宸儀・乗輿などの別称がある。わが国天皇は一王朝が万世一系で継承されたと,後世になって強調され,近代国家はその前提を守っているが,些細に検討すると,神武〜開化天皇までを葛城王朝と称するもの,10代崇神の血をひくイリヒメ・イリヒコの多いため,イリ王朝・三輪(みわ)王朝・磯城王朝と考えるもの,しかも景行・成務・仲哀天皇までは別と考えとくに景行天皇を近江王朝と考え,応神天皇以降を新王朝とするもの,そのあと継体以降とわかつなど王朝交代説をとなえるものも少なくない。【天皇制の変化】古代天皇制の成立を天武・持統朝に求め,律令的天皇制の確立によって中央集権的国家体制を確立させた。その後神祇氏のみでなく仏教の鎮護国家観に支えられて天皇の権威化がすすんだが,天武系から天智系にかわる。天皇親政はしだいに後景にひき,天皇不執政の摂関政治の時代,さらには院政時代といわれる院上皇による後見政治のごときものがつづいている。そうしたなかで,ときには天皇親政の世を回想するものもあったが,天皇不執政がつづくこととなった。
鎌倉政権の成立は,関東を中心とする武家政権であり,権門体制を成立させ,武家政権も武家権門として中世国家を支えた。南北朝内乱に先立つ建武新政は,天皇による公家一統が求められたが失敗した。その後再び院政を含む天皇不執政に立ち帰っている。平安末より鎌倉にかけての神国思想は,天皇の権威回復に用いられたが成功しなかった。室町時代以降,天皇は政治的権威をもつことなく,古代天皇制への立ち帰りももはや不可能な状況となっている。それはともかく摂関政治以来幼帝がしきりにあらわれた。そうした幼い天皇が神を祭り,神と一つとなることは難しかった。そこでその代わりにこれを抱き頂くようにして太政大臣や摂政が行った。神霊は無心の子につくということが生かされた。ことここに至ると為政の権力者その人の権威づけに用いられ,公儀としての宮中祭事が無視されている。しかし摂関家が天皇をあやつっていたころにはまだ名目的にも天皇は治天の君であったが,院政期になると,政治的特権が剥ぎとられることとなった。南北朝の内乱のころより,三種神器のシンボル性がとくに強調された。あたかも正統のシンボルとされた。一時は安徳天皇入水とともに剣を失ってしまったにもかかわらず,三種神器が強調された。そして南北朝の合一もこれによって果たされている。その存在が大きく問題となることは,もはや天皇一人神性そのものも力を失っていることを示す。そのうえ下剋上は,天皇を必要とした守護大名まで生み出した。その結果天皇家や公家社会はおとろえた。足利将軍家は天皇だけでなく自らの権威づけを大明帝国に求め,日本国王臣某とまで称している。この種の態度は,天皇の権威の失墜,年号すら通用しないところさえでている。それでも新興の戦国大名のなかには公卿を通じて天皇に近づこうとするものが出た。それによって名門化をはかろうとこころみてさえいる。織田信長・豊臣秀吉も同じ道を辿ったといってよい。そして公家社会の仲間入りを求めている。その点家康は,天下一統の人として,武家の権威を求めている。天皇家を利用しながら,天皇を九重の雲高くにおし上げ,歌や学問・芸能に限り,文化的存在へとおしこめている。
近世の天皇は公家社会の中心であったが,幕府に公儀性をとってかわられており,思想的には一部の人々によって天皇中心の考え方が保持されていたが,それさえもしだいにかげがうすくなっている。それは政治的にまったくといってよいほど幕府が権力をにぎっていたためである。とくに紫衣事件以後,学典授与権さえ剥奪されている。そうしたことに反発したのが宝暦明和事件であり,そのころから勤王運動が台頭しており,国学者を中心とする大政委任思想の強調が行われている。天皇は公方,内裏とよばれているのに対し,将軍は皇帝と国王と称されている。この両者の共存が,江戸時代の天皇のあり方を示している。天皇をミカドといい,将軍を大君公方と称しており,天皇を法王的存在と考えられることが多かった。しかしそれがしだいに幕末の政治情勢の変化と対応して,天皇の大政委任をとりかえし,自ら政治的実権を回復する方向へとすすんでいる。しかし天皇を玉と考えて,それをにぎって新しい王権の確立を求めるものが多くなった。とくに水戸の正名論中心の国体論が,天皇中心の支配体制を確立することとなった。それでも天皇親政を求める声は必ずしも存在せず,むしろ分裂の調整の保障者的機能を担わせようとするものが多数を占めた。
明治維新は王政復古・大政奉還・版籍奉還によって天皇を中心とする中央集権体制を確立し,万機御裁決の天皇親臨から親政体制への道を歩んだ。天皇を九重の奥から外へ出し,行幸をし,天朝様として敬愛されるものとした。これによって天皇の存在を国民に知らせ,祭政一致の理念を打ち出した。そして天皇親裁を前提とする明治憲法体制づくりにつとめ,天皇主権の確立,万機御統裁を核とする体制づくりにつとめた。その上に天皇の神聖性を保障し,有司専制体制をカバーする体制を確立した。とくに侍補たちの天皇親政要求運動があったが,結果としては親裁・親統にとどめている。軍人勅諭と統帥権の独立を確立して,皇室財産の巨大化をはかって,物質的基礎と軍事的支配権を確立している。天皇の機能は分裂調整機能とともに親統者として形式的には強い政治的発言力をもっていたのである。しかし天皇の王権はただそれだけではなかった。
【天皇制と生き神=現人神信仰】王権の具現は天子の神性の絶えざる更新である。これは大嘗会(だいじょうえ)の構造の中に見出す,王の死と再生の儀礼ということである。天皇崇拝にみられる民俗的側面を考えると,生きながらにして神となる。明治天皇を生き神とするものが圧倒的に多い。それは天皇の行幸や休息その他とかかわるところが多い。天皇の遊幸性と結びつき,安徳天皇や後醍醐天皇にまつわる諸伝説を引用して,天皇の遷幸・行幸が人神の遊幸と習合する。また物狂い帝と呼ばれた王朝時代の陽成天皇や,院政期の後鳥羽上皇の事例も見出せる。また天皇には天皇のみにつく天皇霊の存在が考えられている。それが天皇劇をつくらせ貴種流離伝説とも結びついている。したがって天皇制は農耕のみでなく,山人や漁民,さらに漂泊民・浮浪民のごときものにも支えられている。さらに穢された天皇の伝承が御霊信仰と結びついていきてさえいる。以上のごとき力を評価すべきである。
〔参考文献〕山折哲雄『天皇の宗権的権威は何か』1978,三一書房