●天神信仰 てんじんしんこう
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天神は,現在では普通菅原道真をまつったものとされている。道真が学芸に秀でた人物であったことから,もっぱら学問の神として信仰されている。毎年受験の季節に,多くの受験生たちが各地の天神様に合格祈願に集まる光景は,おなじみのものである。しかし,もともと天神とは地神(くにつかみ)に対する天神(あまつかみ)であり,天上の神を意味していた。天から降り来る神というイメージから,各地に多くの地域神的神格の天神があったことが知られている。こうした天に対する古い信仰からつくられた各地域の天神が,ある時期から急に菅原道真の霊をまつった天神と混同されるようになる。政敵藤原時平に謀られて大宰府に配流された道真の死後,京都では嵐・落雷などの天災が相次ぎ,また道真のかたきが落雷死する事件がおこり,人々はそれらの出来事を道真の祟りと解釈した。こうした世論のなか,横死したものの怨霊はとくに現世に災いをなすという御霊信仰や,雷神を天神の化身として畏怖する雷神信仰などを背景に,道真の霊が天神に結合していった。道真死後50年ほどのあいだに,多治比文子・神良種・日蔵・最珍などに道真の霊が現れ託宣があり,ついに北野に天満大自在天としてその霊をまつることになる(947年6月)。もともと北野には古くからの天神の祠があったといわれ,そこに道真の霊が天神としてまつられる下地があった。日本では,生前に強い恨みを残して死んだものの霊・御霊をたいへん怖れる反面,発生当初は祟っても,鎮めまつりそれに帰依すれば,恵みを与えてくれる守護神になるという発想もあり,その場合の守護神の性格は,その霊の生前の個性をそのままもつ傾向がある。道真をまつった天満天神もしだいに,正直を守り邪悪を懲らす神と考えられるようになり,諸社の起請文の作製は必ず北野神社で行うよう鎌倉幕府の法令に定められたりした。そして,菅原家の学問的伝統や道真自身の学才などとの連想で,北野天満宮創祀後30〜40年ぐらいのあいだに天満天神は学芸の神,文神と考えられるようになり,さまざまな芸道に従うものがこれを信仰し,とくに同志が集まり道真の霊をまつり法楽を行う天神講は各地に普及していった。また,五山の禅僧を中心に,道真の霊が唐に渡り禅宗に帰依したという渡唐天神信仰が現れ,唐服を着用し梅の枝を手にした道真を描いた渡唐天神像が描かれた。これも,天満天神の文神への変化を示すものである。時代が降るに従い,当初の御霊信仰による畏怖の念は薄れ,もっぱら生前の道真の学識・人格への崇拝へと変化していった。近世の天神信仰は,学者たちに信仰されるようになり,天満天神についての学問的研究も現れた。とくに国学者により,日本固有の精神をもって中国伝来の学問を活用することの重要性を説く和魂漢才の思想が道真の業績に仮託され,和魂漢才碑が各地の天神社に建立された。また寺子屋では,天神は習字の神とされ,道真の神像や神号を掲げて酒を供えて天神講を行い,道真の能筆にあやかるよう“手くらべ”と称する清書を天満宮へ奉納することなどが行われた。各地に現在も行われている天神講は中世の天神講と異なりもっぱら子供を対象とするもので,その点では近世の寺子屋の天神講に近く,現在の天神講は,寺子屋の発達と,その指導により各地にひろまったとも考えられている。現在の天神講は普通,だいたい1月25日に,子供達が銭・米を出し合い,決められた家に集まって五目飯を食べたり,『奉納天満宮』と書いた紙の旗を神社に奉納したりする。〔参考文献〕柳田国男「雷神信仰の変遷」『定本柳田国男集』第九巻所収
村山修一編『天神信仰』民衆宗教史叢書第四巻,雄山閣