●天守閣 てんしゅかく
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天守閣(天守)は,城の中枢をなす城内最大の櫓で,天主閣とも書き,殿主の字があてられることもある。近世になって,中世の簡素な城はめざましい変貌を遂げた。それまでの城は豪族の邸宅築城にめぼしい施設として塁・濠・柵・櫓などがあるだけだったが,安土桃山時代から江戸時代初期にかけて,銃砲の使用とともに築城技術も著しく進歩して,城郭と城下町とを含む堂々たる都市築城となった。ここにきて城はもはや単なる軍事的な施設ではなく,その地方の政治・経済の中心として,大名の領内統治のための本拠地となった。したがって城も山城から平山城ないし平城へとその姿を変えていき,城の中枢である本丸には,領主の権勢を誇示する城の象徴として天守閣が設けられるようになった。この天守閣は,5層ないし3層に及ぶ城内最大の櫓で,はじめは居館に望楼をのせた形から出発し,しだいに進歩していった。天守閣のおこりは,信長の安土城天守閣であるといわれ,ここに天守閣は壮麗雄偉な様式の完成をみたが,その内部は黄金の光に輝き,多くの美術工芸品をもって飾られるという堂々たる御殿であった。文献上,天守閣ということばがはじめてみえるのは『細川両家記』の摂津伊丹城である。建設は安土城天守閣に先がけること70〜80年前と考えられているが,規模・構造については不明である。一般に初期の天守閣は,上層に回り縁勾欄(こうらん)をめぐらし,下層には大がかりな入母屋(いりもや)屋根を配することで軽快な外観を印象づけていた。外装は下見板(したみいた)張り,窓には突上(つきあげ)戸があるだけのきわめて地味な風姿であり,また武備の面でも簡素に徹していた。この時期の天守閣としては,犬山城・丸岡城・岡山城・広島城の各天守閣がある。なお現在の犬山城天守閣は,石川光吉が1601年(慶長6)に築いたものであるが,それは新築されたものではなく,1537年(天文6)に斎藤正義が築いた金山城天守閣を移築したものである(近年,この移築説を疑問とする説がある)。関ケ原の役後,城郭の建設は最盛期を迎え,天守閣も形式的にも著しい進歩をみせた。武備においても強化がはかられ,城主の邸宅はそれと離れて設けられるなど,一段と軍事的色彩が濃くなった。17世紀初めには,1年間に諸国に天守閣が13基も建てられた年もあったという。やがて大坂の陣も終わると,江戸幕府は〈元和一国一城令〉1615年(元和1)に象徴されるように大名の築城に対し厳重な干渉を行ったので,城の発達はみられず,天守閣もまた一城の飾りとなりはてた。すなわち各大名は,自領の中で本拠の城を除いてはすべて破却させられた上に,新規に城を築くことも,無断で城に修理を施すことも禁じられたのである。そのため幕府に対する遠慮から,天守閣の形態を備えているものでありながらも,天守閣と呼ばず,3階櫓とか,単に櫓と称したものが少なくなかった。こうして城の大建築時代は,17世紀中期の江戸・大坂両城の天守閣再築を最後に幕を閉じた。【近世天守閣とその構造】(1)松本城天守閣:1597年(慶長2)に完成した。窓が少なく,矢狭間をもってこれに代え,石落を多く設けるなどの武備が重んじられた。(2)姫路城天守閣:白亜の総塗籠(ぬりごめ)で,美的にも武備においても卓越した最高傑作といわれる。大天守は3基の小天守を伴う連立式で,天守の一郭だけでも籠城が可能であった。(3)宇和島城天守閣:初期天守に比べて頭部が大きくなり,構造的に意義のない多くの破風(はふ)が設けられるなど武備が低下し,装飾的になった。(4)高知城天守閣・松山城天守閣:天守再建のときは旧規に従うとの定めにより,復古調の天守となった。(5)松前福山城天守閣・水戸城天守閣:破風をまったく省略した簡素な天守として知られる。
〔参考文献〕児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭大系』(全20巻)新人物往来社
小林清治・小室栄一・城戸久・岡本良一他編『日本城郭史研究叢書』(全12巻)名著出版