●天智天皇 てんじてんのう
アジア 日本 AD626 飛鳥時代
626〜671(推古33〜天智10)第38代天皇(在位668〜671)。舒明天皇の第1皇子として生まれる。母は皇極(斉明)天皇。天武天皇の実兄にあたり,名はアメミコトヒラカスワケノミコト。また中大兄(なかのおおえ)皇子,あるいは葛城皇子ともいう。異母兄の古人大兄(ふるひとのおおえ)の娘の倭姫(やまとひめ)皇后とし,他の7人の妻妾とのあいだに弘文天皇・持統天皇・元明天皇の3帝を含む4男10女をもうけた。その一人である施基(しき)の子孫は,天武系の皇統が奈良朝で絶えたあとを受けて,光仁・桓武を初めとする歴代の天皇となっている。天智天皇が初めて記録に登場してくるのは16歳のときで,父の死にあたって,死者の生前の徳を讃えた詞を述べる誄(しのひごと)の大役を果たしたと記されている。しかし嫡出の長子でありながら天皇位を継げず,このときは母が即位して皇極天皇となっている。彼はこの時期から,隋に留学していた学問僧の南淵請安(みなみぶちのしょうあん)に儒学を学びだし,大きな思想的影響を受け,同門の中臣鎌子(のちの藤原鎌足)らと蘇我氏を滅ぼす計画を練った。朝廷を支配し,権勢は天皇家をも凌ぐ蘇我氏を打ち,律令国家の設立をめざした。645年(大化1)6月,策略によって蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)の蘇我父子を死に追いやり,蘇我氏を討伐すると,彼はすぐさま新政府をおこし,孝徳天皇をたてて都を難波に移した。大化改新である。そして翌年の1月には,四つの綱目からなる改新詔を発布した。私有地・私有民の廃止,地方行政権の朝廷集中,戸籍の作製などによる班田収授法の実施,税制の統一がその大要である。この改革は開始して約5年で一応の成果をあげることができたが,彼はそれによって,皇太子でありながら叔父の孝徳天皇を凌ぐ実権をつかむことができた。その間,彼の実力はいかんなく発揮された。公地公民制を強行するために率先して巨大な私財を返上したり,天皇に決断を迫るために一族郎党を率いて都を離れたりしているところに,彼の実行力のすさまじさを見てとることができる。彼は,孝徳朝(645〜654),斉明朝(655〜661)と皇太子にとどまり,長く即位しなかった。とくに,すでに皇極天皇を退位している母を再び重祚(じゅうそ)させて斉明天皇に据えるという異例の皇位継承を彼が強行したことは,興味深い。斉明朝の時代は百済の要請に応じて半島に兵を進めるという軍事と外交に奔走する時代になったので,皇太子として政治の実権を握っている立場のほうが好都合だったのであろう。しかし百済への救援軍として大軍を半島に派遣し,彼は母と筑前に本営を進めたが,661年に斉明天皇は筑前の朝倉宮で死に,663年の白村江(はくすきのえ)の戦いでは日本・百済連合軍が唐・新羅の連合軍に大敗するという結果になった。この敗北によって彼は半島から手を引かざるを得なくなり,残兵と百済からの帰化人を伴って都に引きあげた。斉明天皇の死後,天皇位は空白のままだった。しかし彼は,母の死後7年のあいだ即位することをせず,皇太子の位にとどまった。彼が天皇に即位すれば,実権ある皇太子の地位を実弟の大海人(おおあま)皇子に譲らざるを得ず,それに対して長子の大友皇子は皇位を譲るには幼なすぎたから,というのがその理由だった。667年に都を近江大津宮に移し,翌年に即位。天皇を中心とする中央集権体制の強化をはかり,中国の制度や文物を積極的に取り入れて,近江令の制定・戸籍の整備などを行った。近江での数年間は大きな波乱もなく,〈朝廷事なく,遊覧これを好む〉という当事の心境が伝えられている。668年には生涯の腹心として彼とともに政治改革を行ってきた藤原鎌足が死んだ。671年1月,政治の全権を掌握する太政大臣という新しい官職に大友皇子を据え,同年12月,弟の不穏な動向を憂慮しながら死んだ。『万葉集』に長歌1首・短歌3首を残す。陵墓は現在の京都市東山区山科御陵上御廟野町にあり,山科陵という。