●デリー=スルタン朝 デリー=スルタンちょう
アジア インド AD
13世紀初頭から16世紀前半にかけてデリーを本拠として北インド一帯を支配したトルコ系およびアフガン系ムスリムの諸王朝。【概史】(1)奴隷王朝(1206〜1290):クトゥブッディーン=アイバクが基礎を築き,さらに第2代イールトゥートゥミシュが確立したサルタナット最初の王朝。アルバリー=トルコ族に属するのでアルバリー王朝ともいう。一般に王権は弱く,トルコ系貴族の勢力が強かったため党争が続いた。13世紀前半から14世紀前半の約100年間は中央アジアから移動してきたモンゴル人の侵略をしばしば受けた。イールトゥートゥミシュの娘ラズィーヤは女性のスルタンとなったがこの時期に王朝は安定し,同時代の歴史家シラージによって名君と称讃された。第8代スルタン,ギャースディーン=バルバン(1266〜1290)はトルコ人の人種的優位を強調し,インド人イスラーム教徒を冷遇した。また行政の統一と組織化に努めた。そのため一時王朝の勢力は盛強となったが,やがてハルジー族トルコが新たな王朝をたてるに及んで衰亡した。奴隷王朝と呼ばれる理由は,アイバク,イールトゥートゥミシュなどスルタンの多くが宮廷奴隷出身であったことによる。しかし,彼ら「奴隷」はわれわれが一般に想像する奴隷とは異なる。彼らはイスラーム法によって身分的法的には束縛を受けたが現実には武芸・教養にひいでた一種のエリート的存在であった。このような王朝はエジプトのマムルーク朝(「奴隷王朝」の意)にもみられる。
(2)ハルジー朝(1290〜1320):ハルジー=トルコ系に属するジャラールッディーン=ハルジーの創始した王朝。その甥アラーウッディーンの治世にサルタナットの勢力は強大となる。政治・経済の諸側面で積極的な統治を行った。生活必需品や奢移品の価格統一をはかり,あるいは各種の税率を一新するなど物価の低下・安定政策をとった。また地税徴集にあたっては中間介在者を排除して国家役人による直接徴収を実施し国庫の増収に努めた。これらの諸政策も一部地域または短期間の実施に終わったため全面的な改革とはなり得なかった。ヒンドゥーからイスラームヘの改宗者であった副王マリク=カーフールは1308年カーカティーヤ王国の首都ワランガルを攻略し,さらに1310年には南インド南部にまで進出しパーンディヤ朝の首都マドゥライを一時期支配した。これは北インドのイスラーム勢力による最初の南インド侵略として画期的な事件であった。14世紀以降はモンゴル人の北インドへの侵入もおさまり,トルコ人も北インドに定着した。またペルシア入・アラブ人・アフリカ人など外来民族も活躍し,インド=ムスリムも台頭するなど,国際性豊かな王朝となった。
(3)トゥグルク朝(1320〜1413):ムハンマド=ビン=トゥグルクが建てた王朝。首都を一時デリーから南方のデカン高原西部デオギリに遷都(1327〜1330)。彼は中央アジアおよびペルシア遠征を試みたが結局失敗に終わり,中央アジアの一部を占有するにすぎなかった。しかし彼の時代にサルタナットは北インドを中心とする部族王朝体制から一大帝国体制へと展開する意図がみられた。度重なる遠征のため国庫に大きな負担が生じ,王国は政治的にも弱体化した。そうした状況のなかで,1338年にベンガルが独立し,続いて1347年には南インドでムスリムによるバフマニー王国が独立した。ムハンマドをついだフィローズ=シャーは都市や道路の整備,そして灌漑事業など公共事業に力をそそいだ。また,建築などにみられるインド=イスラーム文化の基礎をつくった。
(4)サイイッド朝(1414〜1451):4代37年の短期的な王国である。この王国からローディー朝にかけてはサルタナットはすでに統一王国としての勢力を失い,実質的には大土地所有者もしくは地方の一部族王国にすぎなかった。
(5)ローディー朝(1451〜1526):
【統治形態】インドを支配したサルタナットの長,つまりスルタンは基本的には以下の性格をもっている。第1に,西アジアに君臨するイスラームの最高権力者たるカリフに従属する地方君主。第2に,インドの支配者たる王。第3に,出身部族の族長。歴史的にみれば,すでにデリーを拠点に定めてサルタナットが成立したときから直接的にはカリフの従属関係は断ち切られていた。したがって,実質的には部族の首長であると同時にインド=イスラームの最高権力者としての地位を保持した。もっとも領土拡大や経済利益などを目的とする戦争を行う場合にはカリフの名の下によるジハード(聖戦)という大義名分をたてることがあった。スルタンの下には財政・軍事・教学・司法を管掌する役所(ディワーン)があり,さらに地方統治を行う組織が形成されていた。トルコ系ムスリムはすべての機構を統治していたのではなく,中央の役所にのみ直接的な支配権をもっていたにすぎない。おそらく地方の行政・徴税業務はムスリムによる支配以前から存続していた制度や組織に依存していたものと考えられる。財源は,農民から徴集する貢租(ハラージュ)・異教徒に課する人頭税(ジズヤ)・戦利品(ガニーマ)および喜捨(ザカート)である。貢租の徴集方法は各王朝で異なったが,一般的には現物徴集であり,実生産高の5分の1くらいであった。もっとも,ハルジー朝のアラーウッディーン=ハルジー時代には全収穫高の約半分が徴集されることもあった。徴集の権限はワーリー・ムクティーなどと呼ばれる地方長官にあった。しかし実際にはヒンドゥーの地方支配者や地主など,のちにザミンダールと呼ばれるようになった在地有力者が貢租徴集の中間介在者の役割を果たしたと考えられる。さらに,村段階では村長や長老(ムカッダム・パトワリー・カーヌンゴなど)が徴集の責任を負った。イクターダール・ジャーギールダールと呼ばれる役人たちは一定の給与地を与えられ,地方長官としての任にあたったが,彼らはスルタンによって任地を転じられ,一定地に定着して世襲することはなく,彼らの特権も一代限りであった。
【歴史的意義】サルタナットの初期においてはトルコ系諸部族の優位が強調され,他方,ラージプート諸勢力はトルコ系ムスリムに一応従属することになった。しかしすでにふれたように地方統治においてはラージプートをはじめ土着のヒンドゥー支配者達がサルタナットの承認の下に地方官僚としてあるいは土豪・領主として実質的に地方支配権を握っていた。サルタナット中期にはヒンドゥー・ムスリムの混血も増え,またインドイスラームの地位も上昇した。その結果,文化・芸術・建築・思想などさまざまな分野でインド=イスラーム文化が栄えた。ところで,なぜ少数の外来民族であるトルコ・アフガン系ムスリムがインド支配を行うことができたのか。諸説はあるが,一般には当時北部・西部インドに勢力を誇ったラージプート諸侯は分立していたためムスリムの侵略に団結して抵抗し得なかったからだと考えられている。また,従来,デリー=サルタナットを「征服王朝」と性格づける見解があったが,その理由は(1)少数の異民族による多数のヒンドゥーに対する支配 (2)ムスリムによる上部権力(宮廷および中央行政)の支配と下部権力におけるヒンドゥーによる支配といった二重構造 (3)宗教・文化などにみられる二律性(たとえばイスラーム教とヒンドゥー教)などである。しかし,トルコ・アフガン系部族の王朝定立を単純に異民族の侵入と考えることに批判を加え,「征服王朝」説に異論を唱える立場もある。さらに,インドに侵入してきたのはトルコ・アフガン系部族であり,しかも彼らの侵略目的は政治的・経済的な利害であって,けっしてイスラーム教の教理宣布ではないことから,「デリー=サルタナットの成立=イスラームの侵入」という見方は正しくないとする考えがある。サルタナットの支配を通じてイスラム思想に刺激され,自由主義的思想運動が発展したが,バラモンは依然として特権的な地位を認められ,カースト的秩序は維持または強化されるという状況もあった。
〔参考文献〕荒松雄「ムスリム支配下における宗教と政治権力」岩波講座世界歴史13(中世7),1971,岩波書店
近藤治『インドの歴史』新書東洋史6,1977,講談社