●寺請制度 てらうけせいど
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江戸時代,幕府がキリスト教禁制を徹底させる目的で,民衆を寺院に帰属させ,キリスト教信者でないことを寺院に証明させた制度で檀家(だんか)制度ともいう。江戸幕府は1634年(寛永11)にキリシタン禁止令をだしたが,1637〜1638年に島原では益田(天草)四郎時貞を中心とした「島原の乱」が起き,制圧に多大の犠性を要した。また隠れキリシタンも依然として点在していたため,1634年幕府は禁止令の徹底とキリシタンの組織的壊滅をはかり,まずキリスト教信者を探索して仏教へ転宗させ,改宗帰仏者から請印をとった。ついでその制度の適用範囲を拡大し,すべての国民は各自必ず檀那寺(だんなでら)につき,寺院の宗旨証明を受けねばならないことにした。はじめは家内の家族おのおのに宗旨・寺院を選び,寺をかえることを許していたが,のちに家ごとに固定した一寺を定め,離檀を禁止するようになった。ここに全国民が仏寺の檀家となり,家ごとに仏壇をおく風習が生まれたのである。寺はその檀家の家族全員の名前を記した宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)を管理したので,檀家における出生・死亡・旅行・移転・婚姻・奉公などはすべて寺に届け出なければならないこととなり,したがって法要・墓地・位牌(いはい)・過去帳(かこちょう)など祭祀のことは勿論,生活全般にわたって干渉することができた。このような檀家制度により寺院は一種の戸籍事務を扱うとともに,専制的警察国家ともみられる幕府権力の末端機構として庶民支配に重要な役割を果たすようになった。寺請制度が確立してくると,檀家の盆暮のつけ届けや布施・奉賀で,寺院は寺領収納のほかに確実な収入が保証されたわけである。さらに檀家以外からも利益を得ようと,詞堂金(しどうきん)・名目金・開帳・富くじ・寄付・納骨・講・巡礼・卜占(ぼくせん)などで雑多の収入をはかり,寄生地主・高利貸として寺院の貪婪(どんらん)さをきわめ,酒食遊興にふけり,女色におぼれる僧侶も多かった。なかには庶民をキリスト教徒ではないかと脅迫して金をおどし取る寺もでてくるしまつで,このため仏教の思想的創造力はまったく失われ,服装が行動の外面を飾ることだけにこだわり,民心の要望に応えることを忘れた。また庶民は幕藩領主と寺院の二重収奪にあえぐことになったのである。1640年代から1660年代にかけて,幕府の御用学者たる儒家たちが,このような寺請制度の弊害を強調しはじめ,これが排仏論として展開していくのである。1665年(寛文5),幕府は寺請制度の弊害を公式に認め,これを否定する法令を施行した。これを機会に儒教的思想性の強い会津の保科正之(ほしなまさゆき),水戸の徳川光圀,備前の池田光政の領地では1666年から1667年にかけて多くの寺院を破壊する一方で,寺請制度にかえて神職請制度に改めたところもでてきた。寺請制度は,寺院の経済的基盤として檀家制度をもたらし葬祭を軸とする庶民との関係を強力なものとした。この結果,庶民は檀那寺から離れることはできず,信仰とは関係なく生前から葬式寺が決まっているという奇妙な制度になったわけで,これは現在でもわれわれの生活に残されている。【寺請証文】檀家・寺請制度に基づいて寺院が檀家に対して,その寺の檀家であることを証明するために発行した証明書。宗門改帳または宗旨人別帳といわれるものも,個々の檀家に対して寺院が与えた証文を集めたものからはじまったといわれるが,のちに檀家のものがどこかに移動するときの寺院が発行する証文をさすようになった。寺請証文はまた寺請状・寺送状・寺送手形あるいは宗門(宗旨)手形などと呼ばれた。寺請証文は檀家が所属する寺院から檀家の移動先の村・町役人,ときには寺院に宛てられて発行され,これと同時に住んでいる村・町役人から移動先の村・町役人に宛てた人別送状が発行されることもあった。