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●デューイ

北アメリカ アメリカ合衆国 AD1859 

 1859〜1952 アメリカの代表的な哲学・教育学者であり,進歩主義教育運動の理論的先駆者でもあり,プラグマティズムの大成者としてインストルメンタリズム概念道具主義”を主張して,アメリカならびに外国の哲学・教育界に大きな影響を与えた教育哲学者である。

【生涯と業績】彼は,父親アーチボルトと母親ルシナの子として,アメリカ東北部のバーモント州バーリントンの中流階級の食料品店に1859年10月20日生まれ,母のキリスト教信徒としての信条のもとで養育され,11歳で彼も信徒となった。ハイスクール卒業後,1875年9月に地元のバーモント大学に入学,ダーウィンの進化論やコントの実証主義などを学び,他方大学での教会活動にも参加,哲学研究に関心を強くもった。とくにトリー教授の示唆と指導を受けた。1879年に大学を卒業し,ペンシルベニア州サウスオイル市のハイスクールで2年間,その後,バーモント州シャーロットの小学校で1年間教職に従事したのち,トリー教授の指導で,1882年9月ジョンズ=ホプキンズ大学大学院に入学した。そこでパースの論理学,スタンリーホールの心理学をはじめ,モリスのヘーゲル哲学を中心とした研究ゼミナールに参加し,指導を受け,博士号を得て,1884年9月ミシガン大学の哲学講師となり,教授活動を通じて,初等・中等教育に強く関心をもった。デューイはこの年チップマンと結婚した。1888年ミネソタ大学に一時移って教授となったが,1889年3月再びミシガン大学に帰任し夏には哲学科主任教授となった。ここでデューイは,哲学研究の方向をヘーゲル主義より道具主義的立場へと変えたようである。1894年7月にシカゴ大学の哲学・心理学・教育学部長として就任し,1896年1月より実験学校を創設し,教育哲学者としての実践的実験を試み,実験主義的教育思想を確立した。この実験学校は「シカゴ大学付属小学校」として法規的にいわれたものであった。子供の生活経験を重視し,学校の社会化を提唱し,作業を中心とした教育実践をめざす学校を考え,学校を実験室として位置付けた。1903年まで約10年間のシカゴ大学での諸活動は,デューイの教育哲学者また社会哲学者としての信条を形成する母胎となり,そこで一元論的立場を確立した。1897年の『私の教育学的信条』や,1899年の『学校と社会』は,彼の思想をよく示している。1904年コロンビア大学の主任教授として移り,1930年6月に71歳で退職するまで教鞭をとる一方,著述や実践活動を通じてアメリカ哲学界・教育界・思想界を中心に幅広い指導をした。1908年タフツとの共著『倫理学』,1910年『思考の方法』,『哲学に及ぼすダーウィンの影響』,1913年『教育における興味と努力』や,1916年彼の教育哲学を総括した書物と評される『民主主義と教育』などを出版した。アメリカの進歩主義教育協会が設立された1919年(大正8)中国訪問の途中来日し,東京帝国大学で連続講議をし,わが国にも影響を与えた。のち,この講義は,『哲学の改造』として1920年出版された。1924年にトルコへ,1926年メキシコに,1928年ソヴィエト=ロシアを訪問,それぞれの国の民主的な改革を指導した。彼はコロンビア大学退職後,死去(1952年6月1日)するまでの約20年間,哲学・教育・政治・文化・芸術・社会などに関する数多くの著書や論文を公にした。最も代表的なものとしては,1934年の『経験としての芸術』,『共通信仰』,1938年『経験と教育』,「論理学−探求の理論−』,1946年『人間の諸問題』,1949年,デューイの最後の書物となった『知ることと知られるもの』がある。彼の業績については,アメリカやわが国の学会でますます研究が進められている。しかし,その思想に対しては,それぞれの立場からの諸批判もみられるところである。

〔参考文献〕日本デューイ学会編『デューイ来日五十周年記念論文集デューイ研究』1969,玉川大学出版部G.ダイキューゼン,三浦典郎・石田理訳『ジョン・デューイの生涯と思想』1977,清水弘文堂