●デモステネス
ヨーロッパ ギリシャ共和国 AD384
前384〜前322 アテナイの最大の弁論家の一人。政治家としても活動した。彼の作として現在に伝わる演説は,偽作も含めて61篇に及び,民事裁判にかかわる法廷弁論もあるが,最も重要なのはマケドニア王フィリッポス2世を攻撃した演説である。当時,マケドニアはフィリッポスの指導下に急速に力を増大させ,ギリシア半島を征服する構えをみせていた。3篇の反フィリッポス演説と3篇のオリュントス演説においては,彼はマケドニアがアテナイのみならず全ギリシアの自由の敵であることを強調し,フィリッポス打倒の論陣を張った。彼の努力が功を奏して,アテナイはテバイと結んでマケドニアに対抗したが,前338年のカイロネイアの戦いで敗れた。アレクサンドロスは彼の引き渡しを要求してきたが,デマデスのとりなしによって免れた。彼はまた,アテナイの軍事力の弱体化,アテナイ市民の怠惰を論難する作品も多く公表し,アテナイの現状はマケドニアに対する有効な抵抗を不可能にしていることを訴え,アテナイ人の愛国心を鼓舞しようとした。マケドニアの力をめぐって,当時のアテナイにはソクラテス・アイスキネスといった有力な弁論家がおり,彼はことに後者と対立していた。前346年の“フィロクラテスの平和”締結に際して,彼はアイスキネスとともにペラに赴いたが,そのときの両者の対立は後年の大論争に発展し,アイスキネスの親マケドニア的態度を激しく批判した。前323年,アレクサンドロスの死の報せが届くと,デモステネスは改めてマケドニア打倒を訴えて遊説したが,ラミア戦でマケドニアが勝利を得たのち,カラウリア島のポセイドン神殿で服毒自殺をとげた。近代においては彼は,外敵マケドニアに対して祖国を護ろうとした愛国者とも,ポリス社会の変質を自覚せず,単純にフィリッポス攻撃に終始して,時代の趨勢を理解し得なかったとも,称賛と批判の対象になっている。