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●鉄道開通 てつどうかいつう

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 日本の鉄道は幕末から明治維新にかけて,欧米諸国のアジア進出が高まる19世紀半ばの時期に建設・開業の方向にむかった。鉄道の知識は1840年代(天保末〜嘉永初年ごろ)から一部の蘭学者のあいだにひろまっていたと考えられるが,それが1853年(嘉永6)ロシア艦隊の来航の折,模型の実験をみせられ,また翌1854年(安政1)ペリーの率いるアメリカ艦隊が将軍への献上品の模型機関車を試運転したこと,さらに,1860年(万延1)の遣米使節を初め,ヨーロッパへの留学生が実際に鉄道を利用することでひろまっていった。すでに1855年(安政2)佐賀藩精練所で模型が製作され,また1865年(慶応1)にはイギリス人グラバーが長崎で鉄道の試運転を行ったといわれ,このころから在留外国人のあいだで鉄道敷設の出願が相ついだ。そしてアメリカ公使館書記官ポートマン江戸幕府に江戸−横浜間の鉄道敷設承認を求め,1867年(慶応3)12月23日老中小笠原長行から免許状を受領した。しかし大政奉還後のことなので,明治政府はこれを認めなかった。ところが1869年(明治2)11月10日,イギリス駐日公使パークスの進言を入れ,大隈重信伊藤博文らが中心となって,東京−京都−大阪−兵庫(中山道経由)の幹線ほか2支線の鉄道線路敷設の廟議を決定し,またイギリス人ネルソン=レー(前清国総税務司)と外債募集に関して折衝,100万ポンドの起債および技師・職工の雇用,材料の購入をレーに委任する契約を結んだ。しかしレーの不審行為が暴露したので,政府は翌年6月,上野景範前島密をロンドンに派遣し,さきの契約を破棄し,日本の海関税を担保として東洋銀行を通じての起債に変更した。こうして民部省内に鉄道掛が設置され,鉄道建設の業務を担当,のち工部省に移管し,井上勝を鉄道頭に任じ,イギリスの資金・技師・資材によって,1872年(明治5)9月12日に,品川−横浜間が開通,1889年(明治22)7月1日には,新橋−神戸間の東海道線が全通した。他方,私鉄助成の方針もとられ,1881年(明治14)には日本鉄道会社が設立,1883年(明治16)上野−熊谷間が開通,1887年(明治20)の私設鉄道条例などにより私鉄ブームがおこった。しかし1890年(明治23)の不況によって,鉄道への投資はとまり,建設計画はすべて中止された。すなわち当時の鉄道は,好況期にはその敷設会社が乱立し,不況期には建設中止という無統制ぶりであった。そこで1892年(明治25)6月21日,“鉄道敷設法”が公布された。そのおもな内容は次のようであった。(1)必要な幹線をあらかじめ定め,政府が継続事業として敷設する。(2)財源としては6,000万円を限度に漸次公債を発行する。(3)工事の着手順序などは,鉄道会議にかけて決定する。この法律により,政府は鉄道建設の主導権を確保,積極的に鉄道政策を推進していった。また同日,鉄道会議規則(勅令第51号)により,“鉄道会議”が設置された。これは内務大臣の鉄道線路の工事順序・鉄道公債の金額などに関する諮問機関であったが,当初は参謀次長が議長をつとめるなど,軍部代表の発言権が強かった。さて,こうしたのち1900年(明治33)に株式が暴落し,不況がおとずれた。これにより私鉄は経営に困難をきたし,また日清・日露戦争で,軍事輸送の重大さと,私鉄の乱立は輸送に大きな支障を与えることとが痛感され,山県有朋内閣のもとで審議未了の鉄道国有法案・私設鉄道買取法案が再検討され,1906年(明治39)3月31日,西園寺公望内閣のもと,“鉄道国有法”が公布されて,翌年10月1日までに,買収価格4億6,000万円をもって,17社が買収され,全国の主要幹線はすべて国有化されたのである。またそのほかでは,路面電車が1895年(明治28)京都市で開通,ケーブルカーは1918年(大正7)奈良県生駒山で開通,地下鉄は1927年(昭和2)東京地下鉄道会社によって,浅草−上野間に敷設された。さらに朝鮮半島では,1900年(明治33)京仁線,1905年(明治38)京釜線が開通,満州(現・中国東北部)では,1906年(明治39)半官半民の南満州鉄道株式会社が設立され,台湾では,基隆−高雄間の縦貫鉄道が1908年(明治41)に開通した。しかし第二次世界大戦後,これら植民地の鉄道はすべて放棄,国鉄は1949年(昭和24)“日本国有鉄道公社”となる。

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