●鉄道 てつどう
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【鉄道の起源】重量物を陸上で円滑に輸送するための手段として,鉄道が発明されたのは,16世紀半ばであったと信じられている。これに対して日本最初の鉄道は,1872年10月14日(明治5年9月12日),新橋―横浜間で開業したと称される。けれども,史実を正確に記載すると,上記の日付は,天皇が横浜停車場に出向き,政府高官,在日外交官などからなる会席者に対し,鉄道の開業を宣言した行為を取り上げたにすぎない。資金を外債に仰ぎ,鉄道運営にかかわるスタッフの多くをイギリス人を中心とする御雇外人に依存する形のなかで,明治新政府が経営する鉄道が,旅客を対象とする営業活動を始めたのは,明治5年5月7日,区間は品川―横浜であった。この事実を示す記念碑は,国鉄東海道本線に属する品川駅の西口広場に建っている。目を転じて外国での事例を調べると,1830年9月15日,世界最初の鉄道が,イギリスのイングランド中央部の港湾都市リバプールと工業都布マンチェスターを結んで開業したと記す書物が数多い。だが,この場合にも実は,いくつもの但し書が必要なのである。リバプール-マンチェスター鉄道が,世界最初の鉄道と称されるのは,レール(軌条)を敷設してつくられた軌道を,営利を目的とする鉄道運営者が,排他的に使用する方式を確立した史実に由来する。“鉄道の母国”と称されるイギリスでは,19世紀初めの段階からいくつもの鉄道会社が,営業活動を行っていた。けれどもこれらは,今日われわれが日本の各地で目にする有料道路と同質の存在であった。鉄道会社が定めた規則を守るならば,公私の別を問わず軌道の利用が可能であった。これに対して,リバプール-マンチェスター鉄道では,会社が機関車・客貨車を独占的に保有し,事前に公表した運行時刻表に即しながら,列車運転を実施したのである。リバプール-マンチェスター鉄道が世界最初の鉄道と称されるいま一つの原因は,以後1世紀半近くも,列車運転動力の中核となった蒸気機関車が,これまた独占的地位を打ち立てたからである。堅実な技術者として知られるジョージ=スチーブンソン(1781〜1848)が製作した「ロケット号」は,試行錯誤を重ねてきた列車運転動力の自動化が,採算ベースに乗りうる事実を立証した。
鉄道の運転に蒸気機関車を使用しようとする企ては,19世紀の初め以来,複数の技術者によってなされつづけていた。それらの人物のなかでは,トレビシック(1771〜1833)が,天才的な存在として知られている。彼の発明した蒸気機関車は,石炭を積んだ貨車を炭鉱から運河の岸まで牽引する実務を果たしたが,永続的な使用をなし得なかった。その原因は,鋳鉄を材料としたレールが機関車の重量に耐えられなかった上,馬によって貨車を牽引する方式に対し,経済面での絶対優位を保ち得なかったからと説明されている。ジョージ=スチーブンソンが製作した「ロコモーション号」は,1825年,イングランド北東部で開業したストックトン-ダーリントン鉄道でこれも成功裏に用いられた。けれども,この鉄道は,貨物列車を蒸気動力で定期的に運転したにとどまり,旅客輸送では馬が客車を牽引する方式に固執した。また,通行料金を支払えば,第三者も軌道を使用できたのである。1975年,イギリスでは鉄道150年を記念する行事が盛大に催されたが,その際主役をつとめたのは,ロコモーション号のレプリカ(複製品)であった。一方,1980年には,「ロケット150」と称される記念行事が,これまた全国規模で実施されている。世界最初の公共用鉄道を成功裡に実用化し,イギリス国内はもちろん,国際的にも効用を周知させた事実を,高く評価したがための開催であった。
1985年,西ドイツでは国をあげて鉄道150年が祝われる。1835年,バイエルン王国内で蒸気機関車が牽引する列車が,公共輸送の手段となった史実がその前提である。このように鉄道は,産業革命の進行に対応しながら,交通手段の機械化,自動化達成と結びつけて一般には認識されてきた。すでに記したように,公共輸送手段としての鉄道が,日本で実用化したのは明治初年であった。実用知識としての紹介については,幕末の段階でいくつもの事例が認められる。当初それらは,運転動力への着目から「蒸気車」と呼ばれる場合が多かった。「鉄道」という用語は,明治に入ってからの用法といえるだろう。明治新政府は,成立直後に鉄道直営を決定し,実務官庁に鉄道寮の名を付している。
ところで,「鉄道」に対する語法を,世界の主要な言語から拾い出してみよう。ドイツ語・フランス語ではどちらも「鉄の道」である。それに対して,英語としてのレイルウェイには,鉄を意味することばが含まれない。「レール」は軌条を意味し,歴史的には材料が鉄であるとは限らない。初期のレールは木製であった。一方,コンクリート製の軌条をゴムタイヤで走行するモノレール,案内軌条を敷設したコンクリート製軌道を走行する「新交通システム」は,どちらも鉄道としての扱いを,日本はもちろん国際的にも受けている。軌条の実用化は,最初に述べたように,16世紀半ばにまでさかのぼりうる長い歴史を保持してきた。
【鉄道の発展】レールをいち早く実用化し,加えて蒸気機関車の発明という効果的な裏づけにも支えられて,19世紀前半の段階では,イギリスが経営・技術の両面で世界の鉄道をリードした。そのシステムは,極東の島国として国際舞台に登場しようとする日本にも強い影響を及ぼした。日本の鉄道が左側通行の方式を用いるのもイギリス流の鉄道技術を直輸入した事実に対応する。ところでイギリスでは,産業革命の進展に伴い,重量物輸送の手段として内陸水上交通の有効性がまず認識され,全国的な運河網が形成され,「運河の時代」が到来した。だがその繁栄はほどなく鉄道にとって代わられる。運河に比して地形にかかわる制約が少なく,加えて蒸気機関車を運転動力として用いる方式が普及したために,鉄道の優位が培われたといえるだろう。日本でも,鉄道にさきがけて内陸水上交通が有効な輸送手段を構成する時期があった。蒸気船の活用,運河の掘削が各地で行われた史実に着目したい。
イギリスでは,1830年代後半から1840年代末までを,「レイルウェイ=マニア」の時期と称している。リバプール-マンチェスター鉄道が,客貨の双方にわたって有効な輸送手段となったのに加え,営利追求の面でもそれがすばらしい成功を収めた事実が,実業界を著しく刺激したのである。ジョージ=スチーブンソンの息子のロバート=スチーブンソン(1803〜1859)は,技術者であると同時に優れた鉄道経営者でもあった。彼の主導するロンドン-バーミンガム鉄道は,1837年には“太陽の沈むことなき大英帝国”の首都ロンドンに線路を延ばしていた。自由競争の原則を固守した19世紀のイギリスでは,鉄道の建設・運営はすべて民営の方式で行われ,その結果,国内各地から多くの鉄道会社が首都をめざし,競い合いながら線路を建設した。こうした事情のなかで,19世紀半ばには,イギリス国内は網の目状の鉄道線路をもつに至った。同時進行的に弱肉強食がすすみ,地域独占にもとづく鉄道トラストが成立する。
日本の場合にも,明治20年代に鉄道ブームが出現している。イギリスの場合とは異なり,明治新政府は鉄道国営主義で発足し,新橋−横浜,神戸−京都間の鉄道は,大皇の名によって開業が宣言された。工部省に所属した鉄道寮(局)の統轄者は,長州藩留学生としてイギリスに学び,鉄道技術を習得した井上勝(1842〜1910)であった。鉄道運営についても識見を有した井上勝は,政府直営による全国的な鉄道網の完成を理想とした。国土開発手段としての鉄道建設に着目する一方,政府の権威を誇示する手段に鉄道を位置づける才覚をもった井上勝は,第1回帝国議会開催の前年,1889年(明治22)7月1日,東西の両京(東京・京都)を直結する東海道線開業を成し遂げている。けれども,西南戦争とその事後処理にかかわる財政事情から,全国的な鉄道網を政府直営とすることはできず,東北地方・中国地方・九州地方では,鉄道会社による線路網の形成を,許容せざるを得なかった。関西地方では,政府の鉄道が鉄道会社の路線との激しい競争に直面した。日本全国に達する鉄道路線が,政府直営となる鉄道国有化は,1906〜1907年にかけて,17の鉄道会社の買収が行われた結果として実現の運びとなった。全国規模で一元的に運用される鉄道の必要性を,日清・日露の両戦争にもとづく軍事輸送を介して,軍部が強く認識した事情に加えて,資本主義経済の進展が,個々別々に運営され,運賃体系を異にして規格もまちまちの無秩序を忌避したがゆえの措置と解することができる。
イギリスの場合には,鉄道国有化は,第二次世界大戦後の1948年に実現した。とはいえ,全国的な鉄道路線網に対する政府の関与は,第一次世界大戦中から行われており,1921年には地域独占を法的に裏付ける鉄道法が成立し,1923年以降はイギリス国内を4分割する4大鉄道会社併存の状態であった。全国的な鉄道網が小数の有力鉄道会社に統轄され,ついで国有化への途をたどった点では,フランスがイギリスと軌を一にする。これに対して,ドイツの場合には,産業革命の成熟が遅れていたので,先進工業国としてのイギリスに追いつき追い越す目的のもとに,政府による指導が容認され,鉄道官営の方式が早くから定着した。普仏戦争の勝利が,鉄道の効果的運用にもとづく兵力集中に強く支えられていた事実も,注目に値しよう。とはいえ,ドイツ帝国内に,それぞれ自治権を保有する王国・公国が存在する政治形態とのかかわりから,帝国全域を一元的に運営する方式は用いられなかった。ドイツ国有鉄道(ライヒスバーン)は,ワイマール共和国の成立に伴って発足した。
鉄道が独特な発展を遂げたのは,アメリカ合衆国の場合である。19世紀後半のアメリカ史を彩るフロンティアの前進と強くかかわりあい,国土拡張策の具体内裏づけになったのは,多数の鉄道会社が競争裡に線路を延ばした結果としての近代輸送手段の開発であった。内陸に新天地を開くべく,西へ西へと進もうとするヨーロッパからの移住者たちにとって,鉄道は画期的な交通手段となった。また,内陸部に開かれる農場・牧場からの農畜産物を速やかに大西洋岸地域に運び,貿易とリンクするための輸送手段としても,鉄道の効用は大きかった。東西方向に敷設される鉄道は,南北方向につらなるミシシッピ川水系にたよる水上交通と比べて,効率的な存在でもあった。“アメリカ合衆国は鉄道の子”といわれるゆえんである。大西洋岸と太平洋岸を直結する大陸横断鉄道の建設に,合衆国政府が手厚い保護を加え,補助金の交付,国有地の払下げなど,種々の便宜をはかった事実も,鉄道路線網の拡充に役立った。いわゆる「西部開拓」に鉄道が果たした役割は絶大であり,1869年,グレートソルト湖畔で最初の大陸横断鉄道が全通式を挙行した事実は,世界史的意義を有している。とはいえ,大陸横断鉄道完成,「西部開拓」成功の陰には,父祖の土地を収奪されたインディアンの悲劇が存在した事実を忘れるべきではない。一方,建設に必要な労働力としては,奴隷的に使役された多数の中国人移住民が介在する。ついで線路保守用員として,日本人移住者が海を渡る時代が到来する。
1日でも早く,1マイルでも長く線路を敷設する必要にせまられたアメリカ合衆国の鉄道は,単位距離あたり建設費の節減に腐心した。簡易構造の軌道や橋梁,軽く安く車両をつくる技術が,「必要は発明の母」の形をとって開発されていった。今日では世界的に普及しているボギー式の客貨車は,アメリカ合衆国で創案された方式である。旅行が長距離,長時間を要する事例が一般化するなかで,寝台車・食堂車の創案がなされている。ヨーロッパの鉄道は,寝台車・食堂車の設計・運用を,アメリカ合衆国の事例から学んでいたのである。
【軌間・運転動力の変遷】平行に敷設した2本の軌条と車軸を介して結ばれる1対の車輪を,基礎的な構成物とする通常方式の鉄道では,軌条相互間の隔たりを,軌間(ゲージ)と称している。今日では1,435mmを標準軌間と称するが,この寸法はリバプール-マンチェスター鉄道で採用され,以後はロバート=スチーブンソンが主導権をにぎるなかで発達した存在であった。当時のイギリスでは,ヤード-ポンド法が用いられていたから,正しくは4フィート8.5インチが,標準軌間の数値である。4フィート8.5インチを超える軌間は広軌,未満の場合には狭軌と呼ばれている。日本最初の鉄道と称される新橋−横浜間は,1,067mm(3フィート6インチ)の寸法を用いる狭軌として発足した。明治新政府を代表して御雇外人と折衝した大隈重信は,軌間の選定が鉄道の能力・建設費とどうかかわるかを理解できぬまま,事業を進めたため,当時,イギリス領植民地として開発途上にあったケープ植民地(今日の南アフリカ共和国),ニュージーランドで用いられていた1,067mmの使用を決定したのだと伝えられている。
狭軌を用いて日本の鉄道が発足したことは,国力が拡充し,輸送需要が増大すると,重大な障害と意識されるに至った。そうして,日本経済の高度成長のシンボルとなり,アジアで最初となった東京オリンピック(1964)の直前に開業した東海道新幹線は,標準軌間を用いて建設されている。ところで19世紀の半ば,“鉄道の母国”イギリスでは,軌間の選定をめぐって,世論を二分する大論争(ゲージ戦争)がたたかわれた。より広い軌間は,列車運転の安定性をますと同時に高性能の機関車製作を容易にするとの主張をかかげて,7フィート0.25インチ(2,136mm)の鉄道網が,標準軌間に対抗して建設されていたのである。この争いは,政府の介入で4フィート8.5インチに軍配があがり,議会が以後,広軌鉄道は不認可を決定して決着した。イギリスの鉄道は,1892年までに4フィート8.5インチ軌間に統一されるに至った。とはいえ,国際的にみると,広軌はなお存在している。帝政ロシア当時から鉄道の建設が行われていたソヴィエト連邦の鉄道では,広軌を引きつづいて用いるため,東ヨーロッパや中国の鉄道との直通運転を行うときには国境付近で車輪の交換作業が必要である。帝政ロシアが広軌を用いたのは,標準軌間を採択するとヨーロッパ側からの軍事侵入を防ぎにくくなるとの主張を是としたためと伝えられている。
日本の鉄道が狭軌で発足したのは,地形が複雑で山地が多く,建設費が割高になる事情への対応であったと判断しうる。資本の蓄積が乏しかった明治初年の段階では,狭軌の採用は合理的判断であった。けれども今日では,狭軌であることが,高速自動車に対する鉄道の競争力を弱める原因になっているのも事実である。
ところで,16世紀の半ば,重量のかさむ荷車が,道路上で車輪を地面にめりこまないようにする手段として軌条を敷設したのが,鉄道の始まりといわれている。車輪が軌条から脱落しないようにする手段としては,軌条に縁がつけられたが,車輪に縁(フランジ)をつける方策がより実際的であると判断されるに至った。この段階では,車両は自重で下り坂を走り,水平路や上り坂は,畜力による牽引に依存した。蒸気機関を用いて車両を自走させる方式は,1820年代に実用化する。今日では,鉄道車両の運転動力は,蒸気機関・ディーゼル機関・電動機(モーター)に大別される。これらのなかで,蒸気機関・ディーゼル機関の場合には,燃料が車両に積み込まれているが,電動機の場合には,地上に固定する発電所・変電所から供給されるのを原則とする。強力な電源を,車両内部に取り付けることの技術的困難さが,動力を外部からの供給に依存するシステムを一般化したわけである。優れた特性をもつ電力を,しかも外部から供給しうる技術の開発によって,鉄道車両の性能は飛躍的に向上した。鉄道の効用に革新的な意義を付与する新幹線・TGV(フランス国鉄の超高速列車)がそれぞれ電気動力に依存する事実に,注意を払っておこう。鉄道車両に電気動力を用いる試みは,1879年,ドイツのジーメンス(1816〜1892)によって実用化の第一歩を踏み出した。鉄道電化の進展は,エネルギー賦存の状態が国によって異なり,また施設・設備に多額の投資を必要とするなどの事情も加わるため,一様ではない。ノルウェー・イタリア・スイスは,鉄道電化の進んだ国として知られている。日本は,鉄道の運転動力に電力を用いる仕組みを早くから導入した国の一つであり,1895年(明治28)には,京都の市街地や近郊で,電車を用いる旅客輸送が導入されていた。全国的な鉄道電化は太平洋戦争後の現象である。
【鉄道の将来】蒸気機関車の発明によって,内陸部での大量輸送実施の途が開かれ,20世紀に入ると電気機関車・電車の著しい性能向上に支えられながら,より安いコストでの高速運転を鉄道経営者は勝ち取った。20世紀の前半においては,鉄道は“陸の王者”であった。他方,この時期は,石油燃料を用いる自動車が実用化され,しかも年ごとに性能を向上させた時代にも相当する。高速自動車道路の建設も試みられている。とはいえ,自動車は鉄道輸送の不足分を補う手段とみるのがふつうであった。だが今日では,自動車と航空機がそれぞれめざましい性能向上を成し遂げ,加えて運行費用の節減を可能にした事情に圧迫されて,鉄道は自立困難な状態に追い込まれている。“鉄道の母国”イギリスをはじめ,優れた鉄道技術によって,世界の鉄道をリードした西ドイツ・フランスの場合にも,鉄道は赤字経営に悩み,国営鉄道であるがために,一般財政から多額の補助を受けて,なんとか存続するピンチを続けている。極端な赤字経営となった路線を大幅に廃止する対策も講じてきた。アメリカ合衆国の場合には,状態はさらに悲惨である。かつては優良企業の代表とされた鉄道会社が,いくつも倒産しているし,大陸横断鉄道の花形とされた特急旅客列車は,ほとんどが運転をとりやめ,わずかに残ったものも,政府の補助によってかろうじて継続しているにすぎない。遠距離旅客輸送では,所要時間のうえで航空機との対抗が困難,中・近距離では旅客・貨物の双方が,運行経費・機動性の両面で,自動車に対抗しがたいために,今日の鉄道は窮地にたたされるわけである。こうした事情を踏まえての鉄道に対する衰退産業視,その延長上で主張された鉄道不要論は,今日も有力であり,高速自動車道路の建設促進,空港の拡張,増設への主張を支えている。
けれども,1964年(昭和39),東京−新大阪間を皮切りにして,しだいに路線網を拡充してきた新幹線の実績が,鉄道不要論に対する重要な反証となる事実を直視したい。大都市・地方都市を問わず,市街地中心部に間近の位置に駅を設け得た新幹線は,所要時間では2〜3時間,直線距離で500km程度の隔たりなら,高速道路を問題視せず,航空機にも十分に対抗しうる実績を打ちたてた。そうした事実を踏まえて,TGVが登場したのであり,新幹線技術が車両・運用の両面から国際的な注目を集めるわけである。とはいえ,新幹線も万能ではない。東京−福岡・東京−札幌の隔たりでは,所要時間の点で航空機には対抗不可能であろう。鉄道がその特性を今後も生かしつづけうる局面は,巨大都市圏での通勤通学輸送である。高速電車を用いる大量輸送の方式に,自動車では対応できない。この事実は,切り札としての地下鉄建設が,世界各地で進められている事例に照しても明らかであろう。
〔参考文献〕小池滋『英国鉄道物語』1979,晶文社
小池滋『欧米汽車物語』1982,角川書店
原田勝正『日本の国鉄』1984,岩波書店