●デザイン教育 デザインきょういく
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一般にはポスターやブックカバーのような視覚を通しての伝達物や工業製品・日用品の設計,さらには室内空間の演出などに関しての教育をさしている。物品の生産と広報にかかわることであるので専門教育機関,つまり大学や短期大学の美術系学部・工学部・高等専門学校などのなかにデザインを専門とする課程が設置されていることが多い。しかしデザイン行為のなかには,(1)発想が豊かであること,(2)いくつかの条件を合理的に解決すること,(3)美しいこと,(4)多くの人に受け入れられることなどの前提があり,芸術を基礎にした総合的な問題解決学習の要件をもそなえているので,普通教育機関でも取り上げられている。今日では「図画工作」「美術」のなかにデザインが含まれており,造形教育の重要な一部を構成している。【専門教育としてのデザイン教育】どんな物でもそれをつくり出す過程ではデザイン意志が働いている。このことは原始的な石器や士器を考えてもすぐわかることであるが,デザインの重要性が認識されるようになるのは産業革命とそれに伴う大量生産という生産機構の変化のなかでである。ギルドやマニュファクチュアという生産形態では生産品の意匠は各工房の独自性が出ていたのであるが,出回る量も少なく,納品先も特定の顧客であったり,ごく限られた地域の人々に利用されるものであった。しかし量産体制になると一度決められた意匠はかなりの期間大量に,しかも多くの人々を対象にもつ必要が生じてくる。世界に先がけて最も早く産業革命を遂げたイギリスでは,19世紀初頭から生産機構の飛躍的改良にもかかわらず,デザインに関してはフランスなどに非常に劣ることが指摘されていた。そこでこれを反省して1837年に最初のデザイン専門学校がロンドンに設立され,その後この種の学校は各新興工業都市に波及したのである。しかし,一大施策として行われた学校設置も実際には実を結ばなかった。1851年の第1回万国博覧会における意匠的な敗北が美術工芸運動の引き金になり,ラスキン(1819〜1900)やモリス(1834〜1896)によって美術と工芸の統合が叫ばれるようになったのである。しがし彼らの主張は中世職人世界における手工芸への回帰にむかい,実際の機械産品の質を高めることには結びつかなかった。その後産業革命の伝播に伴いフランスやロシアにも専門家養成のためのいくつかの学校が設けられた。しかし19世紀後半から技術の圧倒的発展と不安な世相を反映したアール=ヌーボーの様式がヨーロッパを席巻した。このころデザイン理念について明確な方向を打ち出したのはドイツ工作連盟であった。この組織は生活にかかわる造形の良質化,不良な産品の排撃を目的として,製品の標準化・規格化をおしすすめた。この結果もあって工業生産力は伸長し,オーストリア・スイス・スウェーデンにもポリシーを同じくする組織が生まれた。しかし皮肉にも全体的な国力の増強は第一次世界大戦の一つの要因にもなってしまった。
こののち新興ワイマールに現在のデザイン教育の源流となったバウハウス(1919〜1933)が設立された。中心となった人物はグロピウス(1883〜1969)であった。もともと建築家でドイツ工作連盟のメンバーでもあった彼は諸芸術と機械生産の技術を統合して,新しい造形文化の確立をめざそうと考えたのである。最終的に彼が考えていたのは建築芸術への集約であったが,この目的のためにバウハウスに予備教程を創設したのである。つまり入学してから半年間,学生は木・石・織物などの各工房で基本的な材料の体験をしておくことと,形や色に対する感受性を高める教室などに出ることが要求された。さらに彼は当時の著名な画家や科学者・造形理論家を集め,授業のなかには音楽や舞踊に関係するものまであったといわれる。つまり直接デザインに役立つものだけではなく,芸術的教養として,人間としてだれでもがもっているべき能力の開発を重視したのである。ここにはドイツロマン派のミューズ運動の脈々とした流れを感じさせるが,バウハウスそれ自体は狭い教義にとらわれた組織ではなく,考え方を異にする人々が互いに理論を闘わせ合う集団であった。このために教師のほうも短期間にずいぶん入れ替わっている。この意味でバウハウスはデザイン教育の壮大な実験場であった。この学校の成果は1923年の展覧会と多くの出版物,さらには世界各国から集まった学生たちによってまたたく間に大きな反響をまきおこした。しかし1933年にはナチスの台頭によって閉鎖を余儀なくされてしまった。ドイツを追われたモホリ=ナギ(1895〜1946)によってシカゴにニューバウハウスが再建され,これはのちにイリノイ工科大学のデザイン科となった。ドイツにおいても第二次世界大戦後にウルムの造形大学(1955〜1968)がバウハウスの理念をついで再興された。ウルムは経済的理由により短期間で終わってしまったが,世界が安定成長期に入った1950年代からデザイン教育の必要性が各国で痛感され,グラフィックデザイン・インダストリアルデザイン・インテリアデザインなどの分野がクローズアップされた。そして各国に設置されたデザイン学校はなんらかの形でバウハウスの影響を受けたものが多いといわれる。
【普通教育としてのデザイン教育】デザインという行為はより豊かな生活のために為される造形行為であるから,必ずしも営利や産業を基礎にしなくとも可能である。生活用具の設計では,だれが,いつ,どんなところで使うのか,材料は適切か,安価にできるか,美しいかなどの条件を整理しなければならないし,視覚伝達物ではどんな情報を,どういうメディアで,表現方法を工夫して,だれに送るのかをトータルに考えなければならない。したがってこのような総合的な造形行為を学習することには物の大切さ,材料への対峙,自らの生活様式と独自の造形文化を把握することなどが総合活動として含まれている。この意味で普通教育としても大切な教材を形成しているのである。わが国のデザイン教育も既述のバウハウスに留学した人々によって学校教育への可能性を示唆されたのである。これらの人々にとって衝撃的であったのはそれまでわが国の教育ではあまり考えられてこなかった幾何学的構成が基礎教育として行われていたことであった。川喜田煉七郎(1902〜1975)らは『構成教育大系』(1934)を著し,デザインの基礎教育についての考え方を示した。彼らが着目したのは専門家養成のデザイン教育それ自体ではなくて,その基礎になる教育の方法についてであった。デザインでは絵画や彫塑のように表現のモチーフがないことが多く,新しい形を自らでつくり出すのであるから,各人のなかにしっかりとした自立的な造形感党や造形理念がベースになければならない。このような必要からバウハウスでは形態化のための練習として構成が行われていた。彼らの着目はこの構成練習であった。自然のなかにある形の合理的な美しさを探したり,色や形の集まりのなかに規則性を見抜いたりして,色や形についての感覚を洗練させていくことは基礎練習として大切なことである。したがって具象形ではなく,幾何学的形が練習としては用いられることが多い。ある形が画面に配置されたとき図形相互に働き合う作用,緊張しつつもバランスがとれた形を体験的に学んでいくのである。色や形は全体のなかで,相対的な関係のなかで働くのであって,この関係を整理していくと絵画や彫刻・建築にも形式的な造形原理が働いていることがわかる。バウハウスがデザインや建築を専門にする学校でありながら時代を越えて,地域を越えて大きな影響力をもっているのはこのような教育方法の大きな転換を含んでいたからである。わが国では昭和33年度版の『小・中学校学習指導要領』に初めてデザインということばが用いられ,学習領域のなかに位置づけられたのであるが,導入の初期には実際のデザインを簡略化して教材化しようとする性急な試みが多かったが,デザイン活動の本来の意味が理解されるようになってからは,デザイン化のプロセスに注目した教材の選択が行われるようになってきている。
〔参考文献〕勝見勝『現代デザイン入門』SD選書1978,鹿島出版会
P. グリーン,藤沢他訳『デザイン教育』1979,ダヴィッド社