●デザイン
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デザインの概念は広く,しかも複雑である。英語の意味をみると心的設計と芸術における設計に大別されている。前者は構想・企画・計画といった日本語に対応し,後者はスケッチ・下絵・構図のような美術用語に主として対応する。フランス語の dessin,イタリア語の disegno は後者の意味で使われる。これらの語はいずれも「指示する」という意味のラテン語に由来している。無秩序な状態に一定の秩序を付与することが源義のようだ。デザインに相当する日本語には図案・意匠がある。図案は意図の図と考案の案からつくられたもので,明治初年にヨーロッパのデザイン視察を終え帰国した納富介次郎が「図案国策」建議に用いたのが始まりと伝えられる。図案は現在使われることは少ないが,意匠は工業意匠や意匠登録のように使われている。ところで今日のデザイン概念は近代工業技術の時代を迎えて以後,形成されたものである。基本的には工業デザインの概念としてくくることができる。近代デザインの条件は次の3点に要約できる。第1に明確な目的意識をもった活動であること。第2に製作プロセスは科学的合理性にもとづき,工業技術を活用すること。第3につくられた製品は,機能性と造形性が有機的に統合され,大衆の生活を豊かにすること。つまりデザインとは,諸要素を目的に応じて合理的に統合・実体化していく造形遇程と考えることができる。英語の語源である diesignare の意味と重なる部分が多い。
【デザインの領域】デザインの領域は分類の基準によって多岐にわたる。細分化すればデザインする対象の数と等しくなる。たとえば量産されるグラスのデザインは,工業デザイン・生産デザイン・クラフトデザイン・テーブルウェア(食器類)デザイン,単にグラスデザインともいえる。ここではデザインの領域を一般的に三つの分野に大別して考える。ビジュアル=デザイン・生産デザイン・環境デザインである。
ビジュアル=デザインは図像や記号を用いて情報を視覚化し,伝達を目的としたデザインである。商業デザイン・グラフィック=デザインといった分野が含まれ,印刷をおもな伝達媒体としている。しかし近年はテレビ・ビデオといった電子画像や,標識など環境的な表示物への認識の高まりから,印刷以外の媒体も含めて考える必要が生じている。
物のデザインにあたって工業技術を手段とするものを工業デザイン・インダストリアル=デザインと呼ぶ。生産デザインは工業デザインと重なる面を多く有しながらも,手仕事に近い工芸デザイン・クラフト=デザインも含み,製品のデザイン一般をさす。前世紀以来の近代デザイン運動と最も深い関係にある領域である。
環境デザインは都市計画から街並・建築・公園・庭園・広場まで対象とする。ただし建築は独立して扱われるのが普通である。スペース=デザインと呼ばれることもある。住環境というように,インテリア=デザインや,視環境として色彩計画・サイン計画を含む場合もある。デザイン領域が細分化傾向にあるとき,良質の環境形成にむかって,広い視野から問題に対処するこの分野の活動は,今後重要度を増すと考えられる。
【現代デザイン概念の成立】現代のデザイン概念は,ほぼ1世紀にわたる種々のデザイン運動を経て具体化されてきた。その先駆けとなったのが19世紀後半,イギリスにおけるウィリアム=モリス(1834〜1896)らによる美術工芸運動,アーツ=アンド=クラフツ=ムーブメントである。当時イギリスは産業革命の結果,機械による製品の量産化が可能になった時代である。しかし量産品の多くは歴史的様式の安易なコピーでしかなかった。オックスフォードで教育を受け,高名な詩人でもあったモリスは,ジョン=ラスキンの著書により,中世ゴシック様式の神髄に触れた。以後,ラスキンの思想に強い影響を受ける。行動家の彼は思想的実践として,仲間と1861年モリス商会を設立し,室内装飾や家具・工芸品などの設計製作を請け負い始める。中世の工匠組織的な生産形態を理想とし,あくまでも製品の質を問い,生産の過程を重視した姿勢は近代デザインの成立に大きく貢献した。しかし大衆の生活向上を唱えながら,機械による生産品のあまりの粗悪さに,機械そのものまで否定し,結果的には富裕な階級の要求にしか答え得なかったなど,矛盾もあった。新しい世紀を前に運動は終息する。時代はすでに機械による大量生産を前提に歩み始めていた。
モリスらの運動が,イギリス国内に限られていたのに対し,アール=ヌーボー(新芸術)と呼ばれる運動は,国際的広がりをみせる。ドイツでは,ユーゲント=シュティル,オーストリアではゼセッション(分離派)と呼ばれ,1890〜1910年にかけヨーロッパを席巻する。アール=ヌーボーは植物をモチーフとした独特の装飾様式のため,歴史的様式との訣別という点で評価されることが多い。しかし近代デザイン運動として位置づけるには,この運動の機械技術への創造的取り組みに焦点を合わせるべきだろう。指導者の一人,ヴァン=デ=ヴェルデ(1863〜1957)は,生地のベルギーのほかに,フランス・ドイツでも活躍した。彼は製品の構造と材料の使用に論理性を求め,工作過程を製品の表情に率直に反映すべきと主張した。こうした物づくりの姿勢はウィーンのオットー=ワグナー・オランダのベルラーへ,遠くアメリカのルイス=サリヴァン・フランクロイド=ライトら建築家たちに共通してみられるものであった。 機械生産を明確に肯定し,産業経済上の視点も踏まえた上で芸術家と技術者との協働を提唱したのが,ドイツ人のヘルマン=ムテジウス(1861〜1927)である。彼はイギリスで長く住宅建築の調査を行い,世紀末のデザイン運動を体験した。自国に戻り工業化の点で遅れをとったドイツを立て直すために1907年,工業製品の良質化をモットーにドイツ工作連盟を結成した。この活動はさまざまな意見の対立を内包しながらも,国際的な反響を呼び,1910年オーストリアに,1913年にはスイスに工作連盟が生まれた。
バウハウスは1919年ドイツ,ワイマールに設立された国立のデザイン学校である。初代学長のワルター=グロピウス(1883〜1970)は師であるペーター=ベーレンスとともに,はやくからドイツ工作連盟の一人として活躍し,芸術と工学の統一を発言し実践してきた。バウハウスは建築家の養成を目標としながらも,教授陣として当時すでに名の知れた芸術家であったカンディンスキー・クレー・モホリ=ナギらを迎え,学外ではモンドリアン・ドースブルクらと強い関係にあった。バウハウスの教育成果は彼らの前衛的で実験的な創作態度に負うところが大きい。しかしそれらに加えてしだいに機械工業技術を前提としたデザイン思想と教育システムを確立した。とくに,教育理念は,今日なお世界のデザイン教育に深い影響を及ぼしている。学長は,グロピウス・ハンネス=マイヤー・ミース=ファン=デル=ローエと代わり,所在地も,ワイマール・デッソー・ベルリンと転々とした。1933年,ナチの台頭とともに閉学する。戦後バウハウスの理念を継承発展させるものとして,ドイツに1953年ウルム造形大学が,マックス=ビルを学長に迎えて設立されたが,すでに閉学されている。アメリカに渡ったナギは1937年アメリカンバウハウスとしてシカゴデザイン研究所を設立,その理念は現在,イリノイ工科大学のデザイン部門に引き継がれている。
ヨーロッパのデザイン運動が理念的傾向が強いのに対し,新開地アメリカのそれは現実的である。アメリカのデザインが国際的に注目を集めるのは1930年以後のことであるが,現実のデザイン活動においては,ヨーロッパに先んじるものが少なくない。〈形態は機能に従う〉のことばで知られるルイス=サリヴァン(1850〜1924)が,機能主義的建築を試みたのは1890年代である。1910年ごろには自動車・タイプライター・電話などの工業製品でアメリカはヨーロッパをリードし,大量消費と機械化による,いわゆる大衆社会が生まれつつあった。ヘンリー=フォードは1908年車種をT型車に絞り,廉価高品質車の量産を宣言,以後約20年間に1,500万台も生産する。無敵を誇ったT型フォードもしかし1927年には生産ラインを止める。車種に変化をもたせ,しかも量産体勢をとった,ゼネラルモータースに敗れたのである。大量販売の持続的必要から,モデルチェンジを計画的に行い,デザインがスタイリングの意味と接近するのはこのころからである。工業製品は商品としての性格を強くもつことで,ユーザーの嗜好を反映した,いわば一種の社会的意味を担った記号へと姿を変える。ベル=ゲデス・ヘンリー=ドレイフェス・レイモンド=ローウィらが相次いでデザイン事務所を開設したのはこのころである。以後アメリカのデザインはヨーロッパのデザイン思潮を受け入れつつ,新しい素材・技術・美学に積極的に挑戦する。巨大な経済力を背景としながら,国際的発言力を増していく。
近代のデザイン運動は単純にいえば芸術と技術の統合をめざしてきた。これに経済的要素を加えたのがアメリカといえよう。だが,自由経済の世界にあって市場性を軸に,製品を何より商品としてデザインする姿勢の功罪は,今日アメリカのみに問われるべき問題ではない。
【日本の近代デザイン】明治新政府の指導者は西欧を国づくりの範とした。デザイン関係では1873年(明治6)はやくも納富介次郎をウィーン万国博覧会へ送っている。彼は帰国後,産業デザインの必要を説き,図案という訳語を生むが,当時のわが国にはデザインの基盤となるべき機械技術が未発達であり,大きな成果をみるに至らなかった。むしろ,図案は製品の形や色あるいは模様といった程度の理解で一般化した。今日のわが国のデザイン概念の混乱原因の一つはここにある。1896年(明治29),東京美術学校に図按科(のちに図案科)ができ,5年後には,東京高等工業学校に工業図案科ができる。教育内容は伝統様式の修得に終始したようだが,大正時代に入ると若い世代は,アール=ヌーボー・未来派などの運動に呼応し始める。1916年にはフランク=ロイド=ライトが来日し,帝国ホテルを設計している。1926年(大正15)には日本商業美術家協会が生まれ,1928年(昭和3)には商工省工芸指導所が開設された。5年後,ブルーノ=タウトが来日し,同所の嘱託となった。バウハウスの教育が紹介されるのもこのころである。1940年にはフランスの工業デザイナーのシャロット=ペリアンが来日し,いずれも大ききな刺激を与えた。しかしデザインの一般的理解は,服飾や応用美術といった程度のものであった。西欧の近代デザインの概念と正面から対峙するのは,第二次世界大戦も終わってしばらくした1950〜1960年にかけてである。1951年日本宣伝美術会(日宣美),翌年,日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA),1954年には,日本デザイン学会が設立された。1957年には,通産省によるグッドデザインの選定が開始される。この間,グロピウス・コルビジェが相次いで来日している。また,1960年,東京で開催された世界デザイン会議には,各国から,第一線のデザイナーが集まり,わが国のデザイン界に強い刺激を与えた。同時に,以後の活発な国際交流の出発点ともなったといえよう。
今日,わが国の経済は世界をリードする位置にあり,デザインの質も向上した。欧米先進国とともに同質の問題を共有しているといえる。しかし,個別なものではなく環境のような全体的なデザインの質を問うとき,われわれはまだ諸外国から学ぶべき点も多い。とくに個々のデザイン領域の接点をどう調整するかは大きな課題である。それにはおそらく,心理学・社会学・芸術学など関係の深い学問領域との交流を一層強めていくことが一つの方法だろう。だが,さらに必要なことは,問題の所在をみきわめるために,現代の文明をどうとらえ,またいかなる世界観に立って環境を築くかといった,われわれ自身のデザイン哲学の探求である。
〔参考文献〕ニコラス=ペブスナー,白石博三訳『モダン=デザインの展開』1957,みすず書房
勝見勝『現代デザイン入門』1967,鹿島研究所出版会
高橋錦吉編『日本デザイン小史』1970,ダヴィッド社
勝見勝監修『現代デザイン理論のエッセンス』1969,ぺりかん社