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●デカブリスト

NIS諸国 ロシア連邦 AD1825 ロシア帝国

 1825年12月,専制政治と農奴制に反対して反乱を起こした,ロシアの貴族革命家集団のことをいう。12月のことをロシア語で“デカブリ”というため,このように名づけられた。

【成立】デカブリスト運動の出発点として大きな意味をもつのは,1812年のナポレオン軍のロシア侵入と,さらにそれを撃退して,西ヨーロッパにまで追撃した1813〜1815年にわたるロシア軍の国外遠征である。デカブリスト運動の参加者には青年将校としてこの戦争を体験し,西ヨーロッパ諸国の政治・文化に触れることによって,祖国ロシアがいかに遅れているかを発見した人々がいた。彼らは西ヨーロッパ滞在中,ドイツやフランスの新しい政治思想に接触し,祖国に帰還後は,その経験を実行に移そうと考えた。しかし,ロシアで彼らを待っていたのは思想の自由の迫害・スパイの横行・形式主義であり,さらには農民を軍隊化することによって農民の動揺をおさえようとする屯田制の実施であった。そしてこれらの政策を遂行したのが皇帝アレクサンドル1世の寵臣アラクチェーエフで,これは反動的な“アラクチェーエフ体制”として知られている。1816年,アルクサンドル=ムラヴィヨフ,トウルベツコーイなど6人の青年将校によって最初の秘密結社“救済同盟”がつくられた。のちペステリなどの参加を得ておよそ30人となるが,その目的は専制と農奴制を廃止して祖国を救済することにあった。この結社は,1818年,より広範な同盟員を集める“福祉同盟”に改組され,メンバーは200人を数えるに至った。1820年には,ヨーロッパにおける革命運動の活発化のなかで,同盟の指導部は,ペステリの提案にもとづいて,専制に代わって“共和制”を主張することを全会一致で決定した。また,反乱の主力は同盟員が指揮する軍隊とすることも決定された。同年に行った首都ペテルブルクにおけるセショノフスキー近衛連隊兵士の反乱(この連隊勤務の秘密結社員もいたが,この反乱には関係しなかった)は,軍隊のなかですでに反乱への準備が整っているという確信をデカブリストたちに芽生えさせた。

【再組織】1821年,同盟は結社員のふるい分けのためいったん解散し,最終的には南方結社と北方結社の二つをつくりだした。南方結社はウクライナ第2軍の駐屯地トゥリチンに,北方結社は首都ペテルブルクに本部を置いた。南方結社はペステリ大佐を指導者とし,権力奪取後の臨時革命政府による一時的独裁と共和制を予定していた。社員の討論を経てペステリが作成した憲法草案には,共和制と農奴制の廃止が宣言されている。農民は土地つきで解放されるが,土地の分配は土地を二分して行うとされた。つまり半分は売買できない共同体所有地,半分を売買可能な私有地とし,大土地所有者から無償で収用することになっていた。他方,北方結社も指導者の一人ニキーター=ムラヴィヨフの作成した憲法草案をもったが,これはアメリカ合衆国憲法の影響を受けた連邦制をとる立憲君主制を志向した。ここでも農奴解放は唱えられていたが,土地はほとんど与えられる規定はなかった。

【決起】1825年11月,皇帝アレクサンドル1世がクリミア旅行中に急死,デカブリストは新皇帝の即位に至る空位期を反乱のために利用しようとした。密告により結社の存在が官憲に知られたため急いで決行が決められた。新しい皇帝の宣誓式の行われる12月14日,ベストゥージェフ兄弟に率いられた3,000人の兵士がペテルブルクの元老院広場に集まり,宣誓を拒否,憲法を要求した。しかし,反乱の指導者に予定されていたトルベッコイ公爵が現れず,反乱は鎮圧された。続いて行った南方結社の反乱も1月に鎮圧され,ペステリをはじめリーダー5人が死刑,多数が流刑にされた。しかしデカブリストの理想主義・祖国への献身はその後のロシアの革命家・進歩的知識人の励ましとなった。ゲルツェンは自己の雑誌の表紙をデカブリストのシルエットで飾り,レーニンも自己の政治紙の表題をデカブリストの詩からとった。