●鄭氏(ヴェトナム) ていし
アジア ベトナム社会主義共和国 AD
近世ヴェトナムの名族。16〜18世紀にかけてハノイの黎朝の実権を握り,ユエの阮(グエン)氏と国土を二分して対立した。【鄭(チン)氏の台頭】黎朝の王位は1527年に莫登庸(マク=ダン=ズン)によって簒奪されたが,1533年に黎朝の重臣グェン=キムは前帝明宗の遺子寧(ニン・荘宗)を奉じて挙兵した。莫氏に対する戦いのなかで,鄭氏の祖であるチン=キェムは寒門出身だがグェン=キム※注1※の幕下にあって功を重ね,重用されてその娘婿となった。1545年にグェン=キム※注1※が毒殺されると鄭検は太師となってその遺業を継いたのでその勢力は阮氏をしのぐようになり,グェン=キム1※の子グェン=ホアンは鄭検との勢力争いを避けて1558年に南方のユエに移った。鄭検は大将軍となって莫氏を撃破して北方に追いやった。鄭検の死後そのあとを継いだ長子チン=コイは酒色に溺れたため弟のチン=トゥンがこれに代わり,その鄭松が1592年にハノイを回復して国土の統一に成功した。そのころには黎朝の皇帝は名目的なものと化し鄭氏が実権を掌握し,1599年には王号を称するようになったが,それに対して南方の阮氏もしだいに自立的傾向を強め,やがて両氏は対立するようになる。
【阮氏との抗争】武力によってヴェトナム全土の支配権を確立しようとした鄭松の子チン=チャンは,阮氏が1620年以来租賦を黎室に送らないことを口実として1627年に攻撃を開始し,以後半世紀に及ぶ内戦の火蓋を切った。しかし,結局鄭氏の企図は成功せず,長い戦いに両軍はうみ,チン=チャンの子チン=タックの代になって和平が成立した(1673)。こうしてヴェトナムはハノイの鄭氏(安南王国),ユエの阮氏(広南王国)によって分割支配されるようになる。再びヴェトナムが統一されるのは1786年の西山(タイソン)党のハノイ攻略まで待たなくてはならない。和平成立以後,鄭氏は鄭柞の子チン=カン,鄭根の曽孫チン=キュンオン,その子チン=ジアンと続くが,いずれも内政に意を注いで数々の改革を行った。しかし鄭杠は自ら安南上王と称し君主のごとく振る舞って黎室をないがしろにしたので,各地でしばしば反乱がおこった。
【鄭氏の滅亡】鄭杠のあとは弟のチン=ディンが継いだが,その子チン=サムのときに阮氏の領内でグェン=ニヤック,グェン=ルウ,グェン=フェの兄弟に指導される西山党の乱が勃発した。阮氏の圧制に抗して立ち上がった西山党が広南王国の南部一帯を占領したのを知った鄭森は,これを宿敵阮氏を倒す好機として1774年に南下を開始し,翌年にはユエを占領し,さらに南進の気配をみせた。西山党は鄭・阮両氏を敵とする不利を悟って鄭氏に帰順し,鄭森は軍を北に帰した。一方西山軍は南へ逃れた阮氏一族を追撃し,その指導者阮岳は1778年に自立して皇帝と称することになる。南部ヴェトナムに覇権を確立した西山軍は,1786年6月に〈扶黎滅鄭〉を大義名分として北上を開始した。鄭森のあとを継いだチン=カンが弟チン=カイに実力で代わられるなど,内部抗争で鄭氏は西山軍に抗すすべもなく,また民衆も積極的に西山軍を支援したため,早くも7月にはハノイが占領され,鄭楷は自殺して鄭氏は滅亡した。こうしてヴェトナム再統一を完成した阮兄弟は黎朝の顕宗に謁し,阮岳は中央皇帝,阮呂は東定王,阮恵は北平王と称して全土を3分して支配することとなった。1788年にヴェトナム北部で鄭氏の一族が反乱を起こすとユエにいた阮恵が再び北上してハノイを占領したが,これを嫌った黎朝最後の皇帝昭統帝は宗主国である清に救援を求めた。清はこれに応じて20万の大軍を派遣してハノイを占領したが,阮恵はこの年の暮れから翌年にかけて清軍を撃破し,国外に駆逐することに成功した。このとき昭統帝も清軍とともに中国領へ退脚したので,ここについに鄭氏滅亡に遅れること3年にして黎朝も滅亡するに至った。
![]()