●帝国大学 ていこくだいがく
アジア 日本 AD
1886年(明治19)3月公布の帝国大学令に基づき創設された高等教育機関。同年から1897年までは帝国大学は1校のみ存し,のちに東京帝国大学となる学校を指していた。1897年に京都帝国大学が創立され,その後5帝国大学が加わる。高等教育機関の中心的存在として近代日本のエリート形成に大きな役割を果たしてきた。第二次世界大戦後の教育改革により帝国大学は消滅するが,新学制のもとにおいても旧帝国大学系の大学は支配的地位を保って学問・教育のあり方を規定する存在になっている。なお文部省所管外として台北帝国大学が台湾に(1922),京城帝国大学が朝鮮に(1924)設けられている。【帝国大学の成立】国家主義教育体制の根幹を確立した森有礼初代文相下に公布された帝国大学令。第一条は〈帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其薀奥(うんのう)ヲ攻究スルヲ以テ目的トス〉と規定している。帝国は imperial の訳語で,この法の下で帝国大学に改組される東京大学が前身の東京開成学校時代,対外的に Imperial University of Tokyo と称してより英語ではなじみの語だが,それが“帝国”として日本唯一の最高学府の名称に冠せられることになった。帝国大学は大学院と分科大学より構成され,各研究と教育の機能を分担する。発足時分科大学は法・医・工・文・理の5科があり,のち農科大学が加わる。工・農が総合大学に置かれる例は当時欧米には見られず,国家富強という政策的課題を反映するものであった。1893年井上毅文政下で大学管理機関としての評議会,分科大学における教授会についてその権限が明確にされ,また講座制が定められるなど,帝国大学の基本構造が作りあげられていった。
【帝国大学の社会的地位】帝国大学創立の翌年文官試験試補および見習規則が定められ帝国大学の法科卒業生が無試験で高等官試補になれるようになったこと,また総轄者たる総長が法科大学長を兼任し,その法科大学長が専修学校,明治法律学校,東京専門学校など私立の有力法律学校の監督にあたるとされたことなどに示されるように,とくにエリート官僚養成の場として帝国大学は政府から特権的待遇を与えられていた。これに対し私立学校は1903年専門学校令が出るまで高等教育機関として法的に認められることなく,大学として認められるのはさらにあと1918年以降のことであった。社会の近代化に伴いさまざまな分野で専門的業務に従事するための資格制度も整えられていくが,帝国大学出身者はそこでも有利であった。
【教育の進展と帝国大学】明治後半から顕著になる学校教育の発展は教育・学術文化の単なる質的量的向上を意味するものではなく,官学優位,帝国大学を頂点とする学校の序列化という傾向を強め,帝国大学へ進む前段階の高等中学校(1894年より高等学校)に入学希望者が集中,第一高等中学校は早くから難関となっていた。1897年,日清戦争後に2番目の帝国大学が京都に設立され,次いで日露戦争後の1907年に東北帝国大学,1910年に九州帝国大学,第一次世界大戦後1918年に北海道帝国大学が設立される。1918年に大学令が公布され,単科大学,公私立大学の設置が認められ高等教育は一段と拡充されるが,帝国大学,なかでも最も古く規模も大きい東京帝国大学の優位は動かない。帝国大学はその後1924年に京城,1928年に台北,1931年に大阪,1939年に名古屋に設けられている。分科大学の制度は1918年学部制に改められるが,大学管理機関の実質をもつ教授会,研究体制の核としての講座制は,大学の自治,学問研究の自由を支える機能とともに,しだいに大学の閉鎖性,前近代性,学問研究の硬直性をもたらすマイナス面が指摘されるようになる。東京帝国大学に著しいこの弊害に対し,京都,東北など後進の帝国大学は清新で自由な学風の樹立を目指したが,これはその後今日に至るまで課題であり続けている。
〔参考文献〕大久保利謙『日本の大学』1943,創元社
国立教育研究所『日本近代教育百年史』第3〜6巻,1974,教育研究振興会
中山茂『帝国大学の誕生』1978,中公新書