●帝国教育会 ていこくきょういくかい
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1883年(明治16)成立の大日本教育会を母体とし,1896年12月に発足。1944年(昭和19)に大日本教育会,1946年に日本教育会と改称。1948年に解散した。戦前の日本における代表的な教育関係者の団体。学制期には各地に行政官らを含む教育関係者の団体が結成され,しだいに郡・府県単位の団体に発展し,やがて全国規模の教育関係者団体の成立をみるようになる。1883年9月に誕生した大日本教育会は,全国規模の教育関係者の団体であり,帝国教育会の設立母体となる。同会は初代会長に,文部大書記官辻新次を選び,〈我邦教育ノ普及改良及ヒ其上達ヲ図リ,併セテ教育上ノ施政ヲ翼賛スル〉ことを目的とした。基本的には半官的な御用団体であったが,市町村小学校教育費国庫補助法の実現を求める活動も行った。これは伊沢修二の国家教育社(1890年成立)などとともに行った運動で,井上毅文相によるいわゆる箝口(けんこう)訓令(明治26年文部省令第11号)の発令を招くことになる。大日本教育会はこれを機に,教育政策に対する発言を控えることを再確認する。教育学術団体・教育専門家の職能的団体としての性格は帝国教育会に引き継がれていく。箝口訓令後,大日本教育会も国家教育社も会勢が振るわなかった。後者からの合併申し込みをうけ,大日本教育会は,まず名称を帝国教育会と改め,ついで国家教育社を合併した。初代会長には公爵近衛篤麿が就いた。会則には〈本会ハ我国教育社会ノ中央機関トナリ教育ノ普及改良及ヒ上進ヲ図ルコトヲ目的トス〉と唱われていた。事業としては,教育学術の研究,教育問題の調査,教育功労者の表彰,書籍館・博物館・学術講義会等の開設,連合教育会の開設,教育に関する演説・談話・討議・諮問の会などの開催,教育集会への会員の派出,図書等の編纂・印行・配布が掲げられている。1899年には社団法人となった。帝国教育会発足時の会員は,およそ2,000余人。以後,会員数は倍増と半減を繰り返し一定しない。会則には会員になるための条件に制約をもうけなかったが,会員は視学や校長の職にあるものが多かった。帝国教育会と各地の教育会には直接的な関係はなかった。しかし,帝国教育会は全国連合教育会大会や全国小学校教員会議などを主催していた。1918年(大正7)の帝国連合教育会の創立に際しても主導的な役割を果たした。帝国連合教育会の結成により,帝国教育会は各地教育会の上部組織としての性格もあわせもつようになった。1923年の世界連合教育会結成に際しては代表を送り,これに加盟した。帝国教育会は教育政策に影響力を及ぼすことを目的とする団体ではなかったが,実際には教育奨励政策等の実行を求める運動を展開した。とくに,義務教育費に対する国庫補助制度の成立も発展には寄与するところがあった。また,学制の改革運動も継続的に行った。帝国教育会では調査部を設け,教育問題の研究・調査にあたった。学制調査部では,欧米の教育制度の調査を行い,学制改革の提言をなした。そのほか,国字改良部・美術部・外国語教授法研究部・漢文教授法研究部・中学校教育調査部・訓盲調査部・聾唖調査部・通俗(社会)教育部・初等(小学校)教育調査部などが設けられた。各調査部では,意見書等を発表し教育の発展に資するところが少なくなかった。このほか,第一次世界大戦後には,戦後教育に関する調査や女教員に関する調査など種々の調査を行った。また,大日本教育会以来,機関誌を刊行した。その名称は「大日本教育会雑誌」「教育公報」「帝国教育」と変わったが,教育世論の形成に力があった。1944年,帝国教育会は大日本教育会に改組され,府県の教育会はその支部となった。1946年,日本教育会と改称し,府県教育会の連合体となった。教師の職能団体としての再生の途を模索していたが,1948年,日本教育会の解散を主張する日本教職員組合の委員長が会長に就任するに及んで,その歴史を閉じることになった。