●帝権 ていけん
AD
司法・行政・立法における諸権力を一手に収め,最高神官としての宗教的役割を担い,さらに最高軍司令官として全軍の指揮権を所有する,国家唯一人の最高権力者・王(皇帝)はローマ帝国においては帝政期(元首政)冒頭のアウグストゥスをもって初めて出現する。【ローマ共和政】ローマ帝国の歴史が開かれる共和政の導入(前508年ごろ)以前には,上記の王に匹敵する存在としてはエトルリア人の王たちが伝説上は伝えられている。しかしローマ人貴族と一般市民により彼らが追放され,共和政が施かれると,国家の最高権力は2名のコンスル(執政官ないしは統領)に託された。この2名のコンスルは指導者集団である元老院とローマ市民により毎年選出され,任期1年をつとめた。二人は行政と軍事に関する最高権力を得,その職分を分割することなく,しかも共同責任体制の下でその権限を行使した。したがってコンスル制度はたとえば前代の王に見られたような単独支配から生まれる悪弊を未然に阻止する役割を果たしたといえる。また共和政時代には,国家の非常時の際は,例外として1名のディクタトール(独裁官)をコンスルが任命することができた。彼は全権を委任されるが,その期限は6カ月以内であったため,そこから長期の単独政権が生まれることはなかった。したがってローマ帝国の歴史においては,長期間に及ぶ無制限ないしはそれに近い全権を所有する唯一人の統治者としては,共和政の崩壊期に現れるカエサルにその原型が認められる。そしてこの原型を完成するのがアウグストゥスである。
【皇帝】アウグストゥス以後のローマ帝国における最高主権者は,多数の異民族の王や諸都市国家の首長等を一括して支配していたため,彼らは王とは呼ばれず「皇帝」と称された。もっとも同時代人達は,彼らの皇帝を一つの統一的な名称をもって呼んでいたわけではない。それらのなかで最も古くまた最も頻繁に使用されたのがイムペラトールであり,元来はイムペリウム所有者を意味した。また人名カエサルも最高主権者の代名詞として使用された。そして時代が下るとともにアウグストゥス・尊厳なる者・プリンケップス,(ローマ市民のなかの)第1人者やドミヌス,君主も使用されるようになった。今日の皇帝なる訳語に最も近いのはイムペラトールである。
これは元来は無制限の軍事上の最高指揮権(イムペリウム)の所有者を意味した。この基本的意味に前2世紀半ばには特殊な意味が付け加えられた。すなわち戦場における勝利の後に指揮官が兵士たちからこの称号をもって万歳の歓呼を受け,それがまた元老院からも承認された者だけが名乗ることを許されるようになった。すなわち単なる軍事上の最高指揮権保持者の代名詞から,名誉称号となったのである。当事者はこの称号をローマ市内での凱旋式および指揮官の役職にあるあいだは名乗ることを許された。そしてこの称号を自分の役職名と差し替えたり,また双方を並列して名乗ることもあった。イムペラトールは皇帝と訳され,現在の英語,仏語のほかスペイン語やイタリア語にも使用されている。
【カエサル】ところが前45年10月カエサルがポンペイウスを破って,ローマで凱旋式を挙げたとき,元老院はその勝利を祝し,長期の内乱を平定した功績により,彼を前44年2月に終身のディクタトールに任命した。彼にはイムペラトールの称号も授与されるが,それは今までと違って単なる名誉称号としてではなく,実質的な国家の最高権力保持者という,新しい意味で使用することを許された。彼は自らをユリウス・カエサル・イムペラトール・ディクタトールと称し,イムペラトールの称号をあたかも第二の姓のように使用した。前46年には終身の風紀監察官に任ぜられ,元老院議員の任免権を握った。かくして実質的には独裁者の地位を占めたカエサルの行政と軍事に関する命令は,そのまま法としての効力をもつようになった。護民官同様,カエサルの身体は神聖不可侵とされた。ほかにも彼には多くの特権が認められた。たとえば彼は,ときと場所を選ばずつねに凱旋式用の真紅の緋衣を着用し,月桂冠の冠をかぶり,黄金の椅子を使用できた。元老院は彼の名を不滅にするため,その像を鋳貨に刻印し,第5月を彼の名前ユリウスと交換した。すなわち現在の英語・仏語・独語などで使用されている7月名の起源である。また支配者の肉体には最高神が宿っている,とのヘレニズム的表象はカエサルの好むところであり,彼は自らの神格化を強く押し進めた。彼は自身の家系ユリアの発祥を神に求め,自身の立像を神々のそれと同列に配置させた。ローマでは国父の尊称を受けた彼はギリシアでは不敗の神と崇められた。そして死後は神に似たユリウスとして祀られ,神殿が建立された。すなわち死後における神格化である。以後4世紀に至るまで,皇帝はその死後国家の敵として宣言されない限り,つねに神格化され続けることとなる。こうしたカエサルの行政上・軍事上・宗教上の地位は彼の後継者オクタヴィアヌスの皇帝としての地位にきわめて近かった。その意味ではカエサルはローマ皇帝アウグストゥスの出現の準備をしたものといえる。彼のラテン名カエサルからはのちにドイツ語名カイザー,ロシア語名ツァーリがいずれも皇帝を意味することばとして生まれてきた。しかし共和政を破壊し,東方的専制君主たらんとしたカエサルの姿勢は元老院議員のなかの共和派の猛烈な反対を呼んだ。前44年3月彼は暗殺され,カエサルの企ては中断された。
【アウグストゥス】その遺志を継いだのが彼の養子オクタヴィアヌスであった。彼は義父の急死の翌年にアントニウス,レピドゥスと提携し第2次三頭政治を樹立したのを皮切りに,以後12年間に及ぶ権力闘争を展開した。そしてアクティウムの海戦(前31年)で決定的な勝利を収めることにより,ようやく彼に初代ローマ皇帝としての道が開かれることになる。前29年8月ローマで凱旋式を挙行したオクタヴィアヌスは,長期のカエサル死後の内乱に終止符を打ったことを強調し,自らを〈平和と自由の再建者〉と宣言した。彼は当初から義父カエサルの犯した誤ちを避けるため,終始共和政の伝統の遵守を強調した。前27年1月後は共和政再建のためと称しすべての属領と軍隊の指揮権を元老院とローマ市民の手に返還すると宣言したが,元老院の強い反対に遇った彼は,あくまでも形式上は元老院の要請に従い,共和政の伝統の許す枠内で次のような諸権限の受諾を了承した。
彼はカエサルの遺業を継ぐべく未だ平定されていない属領,スペイン・ガリア・シリア・エジプトを初めとする皇帝直割属領におけるプロコンスル命令権を,10年の期限付きで受諾した(前27年)。これをもって彼は宣戦布告権と講和条約締結権を得た。さらに前23年には元老院直割属領をもその支配下におくことにより,全ローマ帝国領を管理した。さらに前31年から前23年にわたり8年間連続してコンスルを歴任。軍事最高権とともに元老院議会の召集権を得,その議長として国政の最高議決権を得た。前23年のコンスル選出を辞退した彼に,元老院は終身の護民官のポストを授与した。彼はその地位に没年まで留り,政務官の行政・選挙・立法および元老院議決に対する拒否権・干渉権を得た。カエサルと同様に彼の身体も神聖不可侵とされた。そして前19年に元老院から与えられた終身のコンスル命令権をもって,彼以前には類例を見ないほどの膨大な諸権限を一手に握った国家の最高権力者が完成したのである。しかし,それらの諸権限はすべて共和政の枠内にあるものであって,初代ローマ皇帝とされる彼のために新たに,特別につくられたものは何もない。形式的には共和政の枠内にありながら,実際は無限に近い全権を手中に収めた彼の地位の特異性がここにある。
こうした絶大な行政・軍事・財政上の諸権限を背景に,彼にはいくつかの名誉称号や神格化のための尊称が元老院から授与されたが,それらは彼に比類のない権威を賦与することになった。前27年共和政再建の功労者として彼にアウグストゥスの名誉称号が与えられた。以後この称号はイムペラトールと同様,ローマ皇帝を意味するようになり,彼の後継者によって受け継がれることになった。前12年には終身の最高神官に任ぜられ,信仰問題に関しても最高権力を得たのである。彼以後の歴代の皇帝はこの職につくことになるが,その習慣はキリスト教が国教となって以来,グラティアヌス帝により廃止されるまで(382)続いたのである。義父カエサルが自ら「イムペラトール・カエサル・神の子」と名乗り自らの神格化を強力に推進したのとは対照的に,アウグストゥスは自らの神格化には慎重であった。彼はカエサルの所有した称号を受け継ぐに留め,積極的な神格化は避けた。彼は「イムペラトール・カエサル・神の子・アウグストゥス」と名乗り,前2年には,ヘレニズム的な現人神的救世主の思想の延長線上にあった国父の尊称を受けた。東方ではアウグストゥス神殿が諸方に建立され,アウグストゥスは女神ローマとともに祀られた。アウグストゥス信仰の誕生であった。その死後彼は「神君アウグストゥス」としてパラティンの丘に祀られた。
彼は内政・外政上の実権,宗教上の権威に加えて,その膨大な個人資産を行政上の諸経費,軍事費,ローマ市民の食糧の確保や大競技場の経費,ローマの軍道や水道の補修に惜しみなく提供した。彼は元老院とローマ市民から黄金の楯を贈呈されるが,そこには彼のもつ四つの際立った徳が刻み込まれていた。すなわち勇気,寛容,正義それに神々に対する敬虔である。この四つの基本的徳はアウグストゥス以後の諸皇帝にも要求されるようになり,それがまたのちの君主論の中核ともなっていった。アウグストゥスはその政治上の実権,宗教上の権威および人格の高潔さゆえに,〈ローマ第一の市民〉あるいは単に〈第一人者〉と讃えられ,彼および彼の後継者の施政は元首政と呼び慣わされ,初代ローマ皇帝は彼をもって開始した。
アウグストゥス以後約200年ローマ帝国は繁栄を誇るが,軍人皇帝時代の始まる3世紀の前半から内外の危機の増大を契機として,元老院と皇帝によるいわば共同指導体制が崩れ,かわって独裁的軍人政治家が台頭してきた。それとともにアウグストゥスに始まる元首政的皇帝概念も変貌した。
【ディオクレティアヌス】すなわちディオクレティアヌス帝に代表される専制君主的皇帝の出現である。皇帝の称号には「ドミヌス」(主人)が用いられるようになる。この称号自体はすでにアウグストゥスの治下にもあったが,彼はその反共和政的ニュアンスを嫌って,その使用を厳禁した。なぜならドミヌスは直ちにセルヴス(奴隷)の反対語として解釈されることが多く,皇帝(主人)に対する市民(奴隷)を連想させたからであったが。この称号は早くはドミティアヌス帝が好み,時代が下ってセウェルス帝,アウレリアヌス帝になると碑文や鋳貨には「神にして君主」という銘が大量に現れるようになった。そして軍人皇帝時代を収拾する形でディオクレティアヌス帝が登位すると,ドミヌスの称号は確固たる皇帝称号の一部となった。皇帝はもはや市民のなかの第一人者,プリンケップスではなく全帝国領にある臣民に対する「帝王」として君臨するのである。すなわち3世紀の戦乱を克服したディオクレティアヌス帝の改革により国家の軍事・行政・宗教・社会・経済のすべてが皇帝の絶大な権力のもとに集中的に管理されるようになる。そこには伝統的な元老院の指導的地位を尊重し,市民の自由を傷つけない,という原則的了解はもはや存在しなかった。国家の安泰という目的のためにすべてのものが,皇帝を頂点にして秩序づけられた。したがってディオクレティアヌス帝以後のローマ帝国は皇帝を頂点とする巨大なピラミッドにも似た構図を示すことになる。皇帝の権限も権威もまたその神格化もアウグストゥスのころより大幅に強化されたことはいうまでもない。たとえば軍人皇帝時代の後継者問題から起きた混乱を避けるためにも,ディオクレティアヌス帝は初めて四分統治制を施いたが,第二正帝と二人の副帝の指名は彼自身が行った。元老院・市民と軍の承認を意味する万歳の歓呼はあったものの,元老院の発言権は著しく減少していた。こうした体制下では皇帝の神格化がとくに強調され,そこから皇帝崇拝が一段と強まった。サーサン朝ペルシアの影響もあって,皇帝崇拝は宮廷儀式を一層華美で複雑なものに発展させていった。他方皇帝による帝国支配をより完全にするために行政および軍事組織が整備され,中央集権体制ができあがることになる。いわゆるディオクレティアヌス・コンスタンティヌス体制の出現である。
立法・司法・行政・軍事・宗教における絶対的権力を握り,全国民を臣下に従えたディオクレティアヌス帝は自らを「神にして君主」と呼ばせた。彼自身および彼と何らかの関係のあるものにはすべて「聖なる」という形容詞を付けて他と区別し,皇帝位にある者の超人的側面を強調した。真紅の緋衣をまとって,宮中の奥深くに在る皇帝には特別の,選ばれた者たちしか謁見が許されなくなる。しかも皇帝の拝謁時には跪拝礼が慣習化され,皇帝との対話ではつねに直立不動が当然とされた。〈皇帝は人となった神である。したがって一定の神像としても崇拝されねばならない〉とする考えと,〈皇帝は神の力と恩寵を特別に受けた人間である〉という考えの二つが東方的・ギリシア的・ローマ的ニュアンスを帯びて,なお混然としながらもディオクレティアヌス帝の皇帝崇拝を支えていた。アレクサンダー大王に始まる皇帝崇拝の習わしが,ここに一つの終着点に到達することになるのである。
他方皇帝の絶大な権力を支える中央集権的支配体制の完備が,専制君主制的皇帝の存在の第2の特色となる。すなわち全権を握る皇帝のもとに,中央では官廷宰相以下の顕官が国政の中核をなした。75の軍団は皇帝の指揮のもとにはじめは2人の元帥が統率した。行政的に全領土は皇帝の指示で四つの州,14の管区,約120の属領に細分割された。すなわち軍政と民政の明確な分離統治が施かれたのである。ローマとのちのコンスタンティノポリスの二つの首都だけは特別行政区として残され,皇帝指名による首都総督が管理した。【コンスタンティヌス】こうした絶大な権力を手中にした専制君主的皇帝の存在に,変化が起きるのがコンスタンティヌス帝のときである。すなわちキリスト教がそれまでのローマ帝国の国教である異教に代わることによる変化である。すでにコンスタンティヌス帝はミラノ勅令(313)によりキリスト教を公認し,324年以後は判然とキリスト教擁護の立場に立った。彼の伝記作者でもあるカイサレアの司教エウセビオスはキリスト教的皇帝権についてこう説明する。地上の皇帝権はキリストに由来する。つまり地上における皇帝の支配権は,天上における皇帝から授けられたものである。したがって地上における皇帝権は,天上における神の絶対的支配の模像である。こうした皇帝理念に従って,コンスタンティヌス帝自身も地上における神の代理者をもって任じたし,この新しい教え(キリスト教)の保護・育成がローマ帝国に繁栄をもたらすことを確信していた。すなわち発展途上にある教会と聖職者たちの抱える諸問題(正統・異端論争や司教をはじめとする聖職者たちの社会的・経済的地位の安定など)を率先して解決していくのが自らの義務であり,使命であると自覚していた。彼は司教たちに,〈余は教会の外に在る司教である〉と宣言したのは,まさにこうした彼の姿勢を説明するものといえる。コンスタンティヌス帝は進んで13人目の使徒たらんとしたのである。同時に彼はディオクレティアヌス帝以来の皇帝崇拝のための宮廷儀式や皇帝そのものに付加されたカリスマ的要素を,いささかも否定することなく受け継いだ。ここにキリスト教的理念と東方的専制君主的色調を濃く帯びた皇帝が誕生することになる。
こうしたキリスト教的皇帝は,ローマ帝国西方領では476年のいわゆる西ローマ帝国最後の皇帝アウグストゥルスまで存続した。その後ゲルマン諸部族の民族移動による混乱期を経て,キリスト教的皇帝が再び復活するのはカール大帝(800年12月)の西ローマ皇帝としての戴冠を待たねばならない。
【ビザンツ】他方ローマ帝国東方領は1453年までビザンツ帝国として存続したので,こうしたキリスト教的皇帝が断絶することなく生き続けた。しかもギリシア的思弁と神秘性に富むキリスト教解釈により,皇帝の神格化は独自の方向にむかった。すなわち皇帝の存在の根源を今までに見られなかったほど強く神そのものに求めた。皇帝と神の関係を儀式を通じてより神秘的に表現することによって「キリストの友」として特別の霊性を皇帝に認めようとした。神が選び,神が人間の手を通じて加冠した皇帝はビザンツ皇帝唯一人であり,この皇帝が治める国はいわば神の国であり,その臣民もまた神に選ばれた民である。この皇帝も国も臣民も唯一の正統性の所有者をもって任じていたところからビザンツ皇帝の世界支配は当然の彼の権利と考えられた。地上における神の代理者と,自他ともに許した皇帝は内外にわたる行政権はもとより,軍事面でも最高指令官であったばかりか,宗教的にも総主教の任免権をもつほどの権威を認められていた。この点が政教分離をすでに4世紀には明確にしていたカトリック教会,ひいてはラテン世界とは異なる考え方を採っていた。また,それだからこそビザンツ皇帝は常に「皇帝教皇主義」の典型と誤解され続けてきた。そもそも皇帝教皇主義なる概念は,中世ラテン世界においてローマ教皇と封建諸侯が相争ったなかから生まれてきたものである。そこでは教権と皇権はつねに相対立することを前提とし,前者が後者に対して優位に立つとき,これを教皇皇帝主義と呼び,その逆の関係を皇帝教皇主義と呼び慣のされるようになったのである。ビザンツ皇帝は総主教に対する任免権を活用し,思い通りの人事を行い,宗教論争にも自己の見解を正統と認めさせる公会議を開催したこともたびたびあるが。これは彼のもつ一面に過ぎない。他方では教会や修道院に対して寄進・寄附はもちろんそれらの新築や改築(ユスティニアヌス帝の聖ソフィア教会堂の再建),修道士や聖職者に対する免税特権の承認(ニケフォロス帝のアトスの大ラウラ修道院に対する優遇措置),キリスト教伝道活動の支援(スラブの使徒キュリロスとメトディオス)などを通じて教会や修道院を厚く保護したのも事実である。政教分離を原則とするアムブロシウスや教会は,国家より一段高いところに在りとするアウグスティヌスの考え方と,皇帝に総主教をも上回る霊性を認めるエウセビオスの発想とは鋭く対立する。ビザンツ帝国における皇帝と総主教の関係は,その理念は別として,現実的には時の政局や宗教的背景,双方の人柄と勢力関係の濃淡により,きわめて流動的なものであった。ときには皇帝が主導権を握るが,またときには逆に総主教が皇帝を指導することも少なくなかった,したがってビザンツ皇帝をもってただちに皇帝教皇主義の典型とするのは誤っている。なぜならこの用語はビザンツ皇帝のもつ一面のみにあてはまるだけであり,しかもビザンツ帝国とはまったく異なった諸条件をもつラテン世界で使用されたものなのである。ビザンツ帝国における皇帝と総主教の関係は,まさに“ビザンツ的”としか表現しようのない独自のものなのである。