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庭園 ていえん

【歩く庭園の1 露地・茶庭】安土・桃山時代〜室町時代の書院台子の茶の湯から,村田珠光(むらたじゅこう,1423〜1502?,応永30〜文亀2)によって芽生えた佗び茶は,武野紹鴎(たけのじょうおう,1502〜1555,文亀2〜弘治1)によって推進されて草庵茶室の形式も整備され,千利休(せんりきゅう,1522〜1591,大水2〜天正19)によって極限まで徹底されて,茶湯の新しい様式として確立された。

 紹鴎のころ,茶室に付随する庭が創始されて“坪の内”と呼ばれていたが,これが桃山時代に様式を整え“ろじ”と称されるようになった。ろじは利休のころは路地が使われ,江戸時代前半より露地が定着し現在に至っている。路地は待庵(たいあん,千利休の作といわれている)に見られるように茶室に導く道であり,庭とはいえない。しかし,その通路には手水を使うつくばいが設けられていることでもわかるように,茶室に入る前の心を整える精神的な意味が含まれている。それはにじり口によって断ち切られるが,茶道では茶室で行われる茶事の一環として路地は存在するものであり,茶室と路地は同体に考えられている。千利休は一期一会を茶の心とした直心の交わりを究極とし,その手段として極限の茶室と路地をつくり,取り合わせ,置き合わせを心くばりとして茶道を完成させた。その路地を含めた茶室のありようは,“市中の山居”を理想としている。そのために利休露地は常緑樹を常とし,〈渡り六分,景気四分〉とする地味な飛石となっている。利休亡き後,その佗び茶は茶道として倫理的・宗教的な意義が強く説かれるようになり,路地は露地となったと思われる。

 利休滅後,その高弟でもあり武将でもあった古田織部(1544〜1615,天文13〜天和1)によって茶禅一味を旨とする利休の茶室は一変した。茶室は広間や書院風の座敷となり,露地は「花うるわしく」「渡り四分,景気六分」の飛石が打たれ,派手であざやかなきれいを求める社交の場へと変わっていった。この花うるわしい露地は,歩きながら庭を観賞するという遊歩式庭園への導入口であり,後に廻遊大庭園として展開する端緒となる。また草庵茶室と書院座敷を融合させて数寄屋風書院を完成させたのは古田織部を師とする小堀遠州(1579〜1647,天正7〜正保4)であり,遠州の茶道は大名茶・きれいさびと呼ばれている。路地・露地は茶室に参入する心を整えながら,にじり口に導かれる通路であるのに対し,この数寄屋風書院の露地は,歩きながら眺める,観賞の要素が多く含まれて茶庭と呼ぶのにふさわしく,近時多く使われている。

 露地は中門を境にして,内露地と外露地に分かれた二重露地を正式としている。露地口から導かれる外露地の施設としては,寄り付(古くは袴付と呼ばれる),腰掛待合・下腹雪隠(げふくせっちん)・塵穴・木燈篭がある。内外露地の境を仕切る中門は枝折戸など簡素なものから,中潜り,萱門,梅見門などがあり,四ッ目垣など袖垣で区切られる。内露地は腰掛待合,塵穴・砂雪燈・石燈篭・つくばいが配され,延段・飛石によってにじり口に導かれる。これら露地の配置を通していえることは,全体を開放的に見せるのではなく,見え隠れの配置によって樹陰の中に見えつ隠れつ,露地全体を奥深く見せる心くばりが感得されることである。

 初期の茶室の姿は妙喜庵待庵,有楽苑如庵などに見られ,小堀遠州の遺構である大徳寺孤蓬庵忘筌・山雲床に端正な書院風茶室とその露地を見ることができる。

【歩く庭の2 廻遊式庭園】江戸時代〜:書院庭園が書院座敷から座って観賞する庭園であるのに対し,廻遊式庭園は苑路を歩きながら観賞する遊歩式庭園であり,書院庭園と露地が組み合わされてつくられた庭ということができる。この場合,観賞式庭園における建物と庭園との関係と異なり,建物は景観の一つとして,庭園にふさわしい位置と形状の調和が要求される。廻遊式庭園は池を中心にして,その周辺に国内外の名勝や古今の文学をテーマとしたいくつもの小庭園を配し,要所要所から池を臨みながら,趣の異なった庭から庭へと巡り歩くよう構成された庭である。景観構成の中心は池であるが,常に池の全容を見せることなく,時には山深く導き木の間から池をのぞかせ,渓流の谷間を降り,田園調の芝生の広場を過ぎて水辺近くの茶亭で開けた池の景観を楽しむという見せ方である。それらのテーマは人間の習性に従い,右内側に池を眺めつつ左回りに移動しながら観賞するよう構成されている庭園が多い。

 歩く人の移動につれて景観を断続させ,全容を見せることなく連続させる手法を“見え隠れ”という。この手法は定点から観賞する観賞式庭園から,遊歩式庭園(露地)に展開したとき発生した手法であるが,その全容を知らしめない方法は,古く『作庭記』にその源をたどることができる。廻遊式庭園は,一つのテーマの庭から次のテーマの庭へ,次の展開に期待感を抱きながら見え隠れて,時には開き,時には閉じて一つのストーリーに組み立てられていく庭であり,庭園の全容が見通せないように仕組まれている。これらの庭園は,室町時代禅院の庭のように,求道の庭としての厳しい緊張感はなく,書院庭園のように格式・儀礼に圧倒されることもない。求道と格式儀礼から解放された社交の庭ということができる。

 この廻遊式庭園は諸大名が封地や江戸に設けた大規模の庭園で,江戸時代に発達したものであり,大名庭とも呼ばれる。江戸時代前期の庭園としては,桂離宮修学院離宮仙洞御所などきわめて優れた庭園があり,また,水戸光圀が漢学を主題としてつくった小石川後楽園柳沢吉保による和歌を主題とした六義園,諸国の十景を模した熊本水前寺成趣園,金沢兼六園などがある。これらの大名庭は現在公園として都市の憩いの場所として利用されている。

【歩く庭の3 社寺の境内】江戸時代〜:廻遊式庭園は大名の庭であり,飛石・延段は1列の道である。2〜3人が並んで,あるいは多くの人が群がって歩く庶民の庭を江戸時代の神社・仏閣の境内に見ることができる。

 大和長谷寺はぼたんの名所であり,西国三十三カ所第八番の札所として,今日もここを詣でる善男善女の跡は絶えない。九十九折にゆるやかな回廊を登る人の目は,春はぼたんに埋まり,初夏はつつじ,紫陽花に埋まり,開けては大和連山を眺めるこの構成は,廻遊式庭園の開き閉じる見え隠れの手法と同じである。このような景観構成は,京都清水観音など今日も観音信仰に生きる寺々に見ることができる。

 求道の茶が遊びの茶に,求道の庭が遊びの庭に解放されて,歩く書院庭として成立した廻遊式庭園と,来世悲願の切実な信仰が庶民の遊びに開放された空間とは,景観構成の手法としては同じである。加えて花を好む日本人が染井吉野を作り,上野寛永寺から飛鳥山へと“花のオ江戸”を謳歌したように,庶民の庭は信仰と四季の花を結びつけるところから出発していた。今日の都市公園となった大名の庭と共に,これら神社・仏閣の境内は,庶民の憩いの庭として,今日も生き続けているのである。

【庭園から公園へ】明治〜:幕末から明治にかけての封建制度の崩壊による武士階級の没落は,その屋敷・庭園の荒廃をきたし,日本庭園の伝統は中絶する形となった。1874年(明治6)公園設置の太政官布告が各府県に出された。これは新しく公園を計画・設置することではなく,従来の名勝地となっている社寺境内を公園に開放することであった。これにより東京の浅草公園・上野公園・芝公園・飛鳥山公園・大阪の住吉公園・浜寺公園などが設けられた。またこのころから水戸偕楽園・金沢兼六園・高松栗林公園・岡山後楽苑などの大名庭,東京浜離宮・芝離宮・新宿御苑などの宮廷庭園も公園として公開された。以上に見られるように,明治にはじまる日本の公園は,従来社寺・大名屋敷・宮廷に付随していた庭園が都市公園として開放されたものであり,新都市建設の計画の上に位置づけられたものではなかった。

 一方,明治に入って洋風庭園の様式が輸入され,噴水をつくるなど単純な洋風庭園の模倣が各地で行われた。このころの代表的な洋風庭園は新宿御苑で,幾何学式前庭があり,広い芝生と曲線苑路・池・噴水を持つ遊歩式庭園である。近代都市公園としては日比谷公園が1903年(明治36)に完成し,明治神宮内・外苑は1917年(大正6)着工し,1927年(昭和2)完成したが,外苑は絵画館を中心に洋風造園を主体とした大規模な都市公園で,以降の都市公園の様式に大きな影響を及ぼした。

 近時,都市の過密化に伴い市民の憩いの場,コミュニケーションの場としての公園の増加が望まれている。今後伝統ある日本の庭園は,これら市民の公園として日本庭園の伝統の上に,近代都市にふさわしい新しい様式を生むことと思われる。

〔参考文献〕林屋辰三郎校注『作庭記』古代中世芸術論1973,岩波書店

日本建築学会編『日本建築史図集』1949,彰国社

森蘊『日本の庭園』1964,吉川弘文館

西沢文隆『庭園論 I II III』1976,相模書房

北尾春道『露地』1942,鈴木書店

数江教一『わび』1973,塙新書

稲次敏郎「日本庭園と殿舎の関係研究」東京芸術大学紀要No.18,1983

田中正大『日本の公園』1974,鹿島出版会

2.中国の庭園

 中国の庭園はすでに2,000年の昔にその形を整え,秦の始皇帝の阿房宮(前213),漢の武帝上林苑(前138)など知られている。上林苑は周囲300余里。昆明湖など六つの大湖があり,離宮70余,花樹3,000余種を植え,百獣を飼養し,苑内で狩猟を行ったという。いずれも神仙思想(神仙とは不老不死の仙人で,古代中国人の理想像であり,蓬来島に住み不老長寿の霊薬があるという)に基づいた庭園であったという。これら中国庭園が,思想・宗教・文学を基本として自然風景を借りての表現であったことは,東洋,特に日本庭園の源流に深い影響を与えている。

 唐および宋のころは庭園経営が最盛期に達し,文人墨客が輩出した時代であり,山水画・文学に支えられて自由な風景式庭園を生んだと思われる。北宋末の李格非(りかくひ)の著である『洛陽名園記』には,洛陽における20余の名園を挙げ,〈庭園の勝景には兼ね得られないものが六つある。宏大であることを務めるものは幽邃(ゆうすい)に欠ける。人力の勝るものは蒼古がたりない。水泉の多いものには眺望が少ない。この六つが兼備しているのはただ湖園のみである〉と述べているが,これは中国作庭の基本の風景式のうちでも自然美と人工美の相反する要素の調和を求めたものであることを示し,同時に,中国が世界の風景式庭園の先駆をなしたものであることがうかがえる。これらの庭園は今は残されていないが,抗州西湖の景観などに往時の姿をしのぶことができる。

 中国の住居様式は外周を牆壁(しょうへき)で囲んだ内苑式の四合院(4棟からできている住居)を基本とした集合住居であり,その内苑は独立樹・盆栽などで整えられる。日本の観賞式庭園が室内と一体であるのに対し,中国住居の内苑は西洋住居の内苑様式を思わせる。中国庭園は貴族・富豪の住居に付随して造られるものであり,牆壁によって住居と二分された独立した庭園である。この独立した庭園は日本の廻遊式庭園とその系を同じくしており,点在する茶亭や池・島などの構成要素に廻遊式庭園の源流を見ることができる。しかし,その表現方法はまったく異なり,流れるような見え隠れの断絶ではなく,太湖石(洞庭湖に産する石灰岩で,浸食のため複雑な形状をしている)の石組みに代表されるように,自然美と人工美のコントラストが強調された構成である。中国で名園の残存するところは蘇州・揚川・抗州などいずれも水量の豊かな地域であり,蘇州には留園・網師園・拙政園など,揚には何園・个園(こえん)など名園が見られるが,いずれも明・清時代のものである。

〔参考文献〕杉村勇造『中国の庭』1966,求龍堂

陳従周『蘇州園外』1956,リブロポート

建築科学研究院編『中国古代建築史』1978,中国建築工芸出版社

3.西洋の庭園

【西洋庭園の特色】西洋各国の庭園様式は,気候・植生・地形などの自然環境条件や民族・政治・宗教・文化などの社会環境条件によって異なるが,一般的には自然観や芸術観の相異により,整形式と自然風景式に大別できる。しかし,発生としては同時的なものではなく,伝統的には整形式で歴史は古代に始まり,住宅の中庭に源がある庭園と,神殿や宮殿の外庭に源がある庭園からなる。発祥地は,古代エジプトや古代メソポタミアなどのオリエントにあり,遺構や記録により多くの事例を見出すことができる。一方,自然風景式は18世紀末から19世紀にイギリスを中心に広がったものであり,自然に対する思想・絵画・文学などの影響や風土的条件,さらには東方文化の影響の中で誕生したものである。ケントの〈自然は直線を嫌う〉という言葉に代表される直線的・幾何学的な整形式庭園に対置する様式として,自然風景式庭園を位置づけできる。

 西洋庭園は人為的な造形によって特徴づけられるが,中でもどのような造形性に重点を置くかによって,建築的な整形式の中にも,フランス式庭園に代表される幾何学的性格の庭園,古代ローマの住宅庭園に代表される実用機能的性格の庭園,イタリア露壇式庭園に代表される構造的性格の庭園がある。また,有機的な自然風景式の中には,造園のモチーフである風景に対する意識や態度によって,イギリス・ドイツなどのように大面積の中に,自然の風景をそのままつくる写実的性格の庭園,中国や日本に典型的な小面積の中に,縮景としてつくる理想的性格の庭園,壺庭的な屋内庭園に代表される小面積で人工的な囲いのある形式的性格の庭園がある。

 庭園は常に住宅建築や宗教建築・公共建築などとの関係においてつくられており,閉鎖的な建築空間と開放的な庭園空間が,囲いのある土地の中で生活意識や美意識によって変化し,自然と最も密接に関係しながら社会環境・生活環境の影響を受け形成されてきた。庭園と建築空間・都市空間の関係を中心に特性化すると,四つに分類できる。第1は神殿や宮殿などの公的で,シンボリックな建築空間と庭園の関係である。古代エジプトのデル・エル・バハリの神殿からクノッソス宮殿アルハンブラ宮殿,メディチ邸館,ムガール王城,ベルサイユ宮殿に至る祭りごとのための庭は,長い歴史を物語る。建築物は景観を構成する要素の一つであり,遊歩式の庭園が主となる。

 第2は貴族・士族・豪族の住居や別荘建築空間と庭園との関係である。エジプトの古代絵図に表れる住宅の中庭の影響を受けていると考えられる,古代ローマのポンペイのパンサ家の住宅から,イタリアの修道院建築,イスラーム教国のパティオを持つセビリアのアルカサールなど,中世に代表される中庭式整形庭園をもち,建築物内からの景観と庭園内の遊歩による景観の両面を配慮している。しかし,別荘建築においては,建築物はあくまで景観構成の一要素として扱われている。

 第3は,市民の住居建築空間と庭園の関係である。庭園は初めは薬草や野菜など実用的な草木の栽培を中心とした,必要にせまられたものであり,しだいに好ましい自然・緑陰・水などを,美的観賞を目的とする方向へ展開していった。しかし,近世までの市民の住居は貧弱なもので,共同の庭のある集合住宅であり,19世紀以降,社会情勢の変化によって整形式の中小庭園がつくられるようになった。市民住宅の庭園は,あくまで戸外の部屋としての機能が主であり,観賞の場とすることは少なかった。

 第4は,公衆のための都市空間・広場空間庭園の関係である。古くはギリシアの広場アゴラが造園によって装飾されていたと言われるが,19世紀までの建築や核となるモニュメントによって限定される広場は,基本的には造園されることは少なく,庭園は観賞性よりも修景の一構成要素であったと考えられる。一方,イギリス・アメリカ・ドイツなど自然風景式庭園の影響を受けた,都市空間の緑地である公園が数多くつくられ現在に至っている。これは,民主社会を背景に個人的,特権階級を中心として発展してきた庭園の歴史が公共的な庭園である公園の登場によって大きく展開したといえる。

【西洋における整形式庭園の源流】庭園文化も他の文明・文化の系譜と同様,エジプト・メソポタミアを中心としたオリエントを原点として,東方のギリシアや新バビロニアを経てローマへとたどる,西洋世界の流れを見ることができる。他方,東方のイスラームの世界に継承され,東はインド・中央アジアから北アフリカ沿岸・スペイン半島に及ぶ地域では,ペルシア=サラセン式と呼ばれる庭園様式が生まれ,一つの流れを形成している。

 東方世界における中国を母体として,朝鮮・日本などで展開した神仙思想にもとづいた自然風景式庭園の系譜の歴史に対し,西方世界では熱帯性気候風土の中で発達した,中庭を中心とした歴史であり,実用性・宗教性・審美性の違いはありながら,その意匠は整形式で建築的な性格を強くもっている。このように,庭園文化は創世期においては相互交流が少なく,地域の気候・風土・自然条件に影響されながら,特性をもった様式を形成していたと推測することができる。

 (1)古代エジプトの庭園:エジプトは西洋における庭園文化の源であるといわれている。伝承で最古のものとしては,古代エジプト中王国(前2100〜前1700)の偶話シンウーエ物語に見ることができる。この中に表れる〈死者の庭〉は死後の生活が生前の延長と考えたものであり,庭園がエジプト人にとって最高の憩いの場であったことが推測できる。死者の庭の思想は,レクーマラの庭園の舟遊びのレリーフに見られるように,長方形の庭で,周囲は高い壁で囲まれ,中央に舟を浮かべた池があり,その回りには低木から高木へと修景植栽された整形式意匠の中庭の原型であり,平坦な土地につくられたものである(図1)。伝承の庭に対し,庭園遺構の最古のものといわれるのは,古代エジプト新王国(前1555〜前1350)のハトシェプスト女王が造営した,デル・エル・バハリの神殿のテラスに見られる植樹穴であるが,プントの歩廊には香木や各種の庭木が移植され,整形式の庭園もあったと推測することができる。

 (2)古代メソポタミアの庭園:メソポタミアでは新バビロニア王国ネブカドネザル2世(前604〜前562)が王妃アミーテュスのために造営したといわれる架空園が有名である。また屋上庭園・空中庭園・懸垂園・つり庭などと呼ばれ,階段状ピラミッドの各テラスが下段から屋上まで大小の樹木を植え,全体の姿は森でおおわれた山のように見えたという。その規模はいろいろな説があるが,相当大規模であったと思われる。調査によれば遺構から煉瓦や陶片,給排水のための施設が発見され,人工地盤に植樹された緑豊かな庭園は,森林の豊富な丘陵地帯という自然環境と高度な土木技術との融合によってなしえたものである。エジプトの平坦な土地での整形式庭園の傾向に対し,丘陵地での自然的な傾向の強い大規模な庭園であった。現在は断片しか残っていないので,実態はわからないが,17世紀につくられた北イタリアのマジョーレ湖に浮かぶ,イゾラ=ベラの庭園は,バビロンの架空園を想像させる。

 (3)古代ギリシアの庭園:民主的な思想の発達したギリシアでは,個人の庭園より公共的な造園の方が発達した。その一つは,公共の広場であるアゴラを造園によって装飾したと考えられ,庭園としての性格は弱いが,都市広場の伝統として伝えられ,現代の公園に連なる重要な意味をもっている。公共的な庭園としては,聖林が挙げられる。広義の聖林の発祥はメンポタミアといわれるが,ギリシアでは神殿を聖林によって,一層神秘さと荘厳さを増している。聖林の樹種は,カシワ・シュロ・プラタナスなどの緑陰樹を主に,果樹なども用いられた。事例としては,アポロ神殿やゼウス神殿の聖林が有名である。

 (4)古代ローマの庭園:ギリシアでは公共的な庭園が主であったが,古代ローマでは個人庭園が一段と発展し,住宅や別荘庭園にその例を見ることができる。ポンペイのパンサ家の住宅(前2世紀頃)は,ローマ住宅の典型で,前面道路に面した入口を通る軸線上に,アトリウム=前庭としての中庭,ペリスティリウム=列柱廊で囲んだ本庭としての中庭,クシュストゥス=後庭としての中庭が順次並んだもので,最も形式を整えている。アトリウムは儀礼的・形式的なものであり植物を植えることはなく,鉢物を置く程度であり,周囲の部屋は対外的な用談や商談に使われた。ペリスティリウムは,舗装した列柱廊に囲まれた土庭で,草花が植えられ,池や噴水・彫像・祭壇などが整形的に構成されている。周囲の部屋は家族のための空間であり,日本の場合と異なり,最も美しい部屋や空間を家族の団らんに用いるヨーロッパの慣習が,この時代にも見られる。クシュストゥスは,サービスヤードとしての機能を持つものらしい。

 このように都市内の有産階級の市民の家は,敷地いっぱいに建てられることから,各部屋は中庭に向かって開かれる形式を取ったが,無産階級の市民は中層の集合住宅インスラに住み,その中庭は明かり取りであり作業場であって,庭園といえるものではなかった。

 このように,古代ローマの住宅庭園は,古代エジプトの整形式の中庭の様式を,周囲の建築や部屋からの視線を考慮し,一層発展させ形式を整えていった。

 貴族の別荘の庭園は,宴会のための場として華麗で華美なもので,造園園芸の高度な発展に大きな影響を与えた。ポンペイの「神秘の家」,ネロの「黄金の家」を始め,小プリニウスの別荘である海辺のラウレンティナ荘とアペニン山脈のふもとにあったトスカナ荘がある。さらに,遺構としては,2世紀初めハドリアヌス帝がローマの東方に建てた,ティボリの別荘,ハドリアナ荘がある。50ヘクタールを超える敷地には,数多くの名勝をテーマにした景観がつくられ,中庭をもつ多くの建築が配されている。古代ローマの住宅庭園・別荘庭園は,造園・修景の面で,後年の文芸復興における庭園に多大の影響を与えている。

(2/3:続く)

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