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庭園 ていえん

 人のすまいは住居とその周辺部,すなわち屋根の下の空間と屋根の外の空間から成り立っている。住居周辺の外部は住居とのつながりにおいて用途をもち,美観の上から整えられて庭園となる。その庭園の整え方は,建築物の造られ方と深い関係をもって造られている。建築物が組積造(石・煉瓦などブロックを積んでつくる方法)の場合は壁の開口部が小さく,庭は当然室内と余りかかわり合いなく独立した庭園として整えられ,庭は人が歩き眺める遊歩式庭園となる。遊歩式の場合,建築物は庭園の景観構成の一要素となり,庭園に整形式(幾何学式)が生じる。西洋庭園の多くはこの系に属するが,18世紀初め自然主義思潮や東方文化の影響によってイギリスを中心に自然風景式(不整形式)が起こり,庭園の二大形式となった。

 建築物が軸組造(柱・桁・梁で組み立ててつくる方法)の場合,風土条件において異なるが,一般的に開口部が大きく,庭は当然室内と深いかかわり合いが生じ,室内外は一体となって自然風景式が主体となる。日本・中国の庭園は共にこの系に属するが,中国庭園は遊歩式が主体であり,日本庭園は観賞式を主体として近世において遊歩式がこれに加わり,自然風景式の内でもとくに縮景法に顕著な特色が見られる。

 以上のことから,庭園形式は整形式と自然風景式に大別される。整形式庭園は,1点1軸を中心として左右対称またはそれに準じた幾何学的な地割りをもち,建物を対象として発達している庭園である。自然風景式庭園は自然の風景を対象とし,風景的景観をもって構成される庭園であり,自然風景の縮景法は特定の自然景観を限られた庭園の敷地に模写する手法である。さらに庭園形式を観賞方法から大別すると,観賞式と遊歩式に分けられる。観賞式庭園は人が室内から座って眺める庭であり,一定点からの正面性をもって構成されるのに対し,遊歩式庭園は歩きながら眺める庭であり,視点の連続性から構成され,建物は景観構成の一要素となる。

 庭園は自然環境や社会環境の諸条件によって,世界各国・各地域およびその時代によって多様な様式を生むのであるが,本項では前記の建物との関係から生じる庭園形式・観賞方法に沿って,日本・中国・西洋諸国の庭園についてその概略を述べる。

1.日本の庭園

日本庭園の特色】日本の自然風景式庭園を観賞形式から分類すると,建築物内部から観賞する「観賞式庭園」と,庭に降りて歩きながら観賞する「遊歩式庭園」に大別することができる。観賞式庭園は,禅宗寺院には主として枯山水(からせんずい),書院には書院庭園とそれぞれ異なる様式で構成されるが,いずれも室内から座って眺める庭園であり,したがって観賞する方向から一定の正面性をもって構成されている。これに対して遊歩式庭園は,歩むにつれて,見えつ隠れつ移り変わる景観を楽しむものであり,茶庭廻遊式庭園はこれに属する。

 これら多様な日本庭園のすべてを含めて特色は,それが終始自然風景式で一貫されてきたことであり,1点・1軸を中心として左右対称に整形され,建物を対象として発達したヨーロッパ庭園の整形式庭園とは,際立った日本庭園の特色といえる。さらにヨーロッパ,とくにイギリスにおける自然風景式庭園と比較すれば,イギリス式が自然風な池・沼・広い芝生・点在する樹林・外周の森林という遠望的・牧歌的風景に対し,日本の自然風景式庭園は,日本の自然風景の要素を限られた面積に濃縮する,または象徴的に表現する縮景法によったものであり,自然風景式庭園のうちでも特色あるものといえる。

【日本における自然風景式庭園の源流】飛鳥時代〜平安時代初期

 作庭に関する記録は7世紀初期にはじまる。612年(推古20)に百済の帰化人が皇居の南庭に須弥山(しゅみせん)と呉橋(くれはし)をつくっており,また,620年(推古28)ころ蘇我馬子が飛鳥川のほとりに家を建て,庭に池を掘り小島を築いたので,世の人に島の大臣(おとど)と呼ばれたことが記されている(『日本書紀』)。草壁皇子(662〜689,天智1〜持統3)の島の宮の庭園は,池が掘られ,池汀(ちてい)には荒磯を表わす岩石が組まれ,中島へは橋をかけ,水鳥が放たれた海景を模した庭園であった(『万葉集』)。

 これらの記録に海浜・荒磯・島など海景描写の多いことは,日本庭園形成の基幹を位置付けるものとして重要である。これは海からはるかに遠い山国にあって,海景とくに瀬戸内海の美しい風景は追憶の対象,あこがれの対象であり,これを庭園に再現する努力が日本独自の縮景法による自然風景式庭園を形成してきたと思われ,筑山・池・島・白砂・水流・滝など自然要素で構成する日本の伝統様式は,すでにこの時代に位置付けられていたことを示している。1975年(昭和50)に発掘された平城京左京三条二坊六坪遺跡は,池の水深が浅く,汀線が複雑に湾曲しており,池底に玉石を敷き,池縁に石を立てるなど,奈良時代の作庭技法を知る上にも,また当時の庭園の姿を知る上にも,日本庭園史上重要な発見である。

 794年(延暦13)都は平安京に遷都され,以来1,000年に及ぶ日本庭園の歴史は,この平安京の自然と文化とのかかわりの内で成り立ってきたものである。当時の京都盆地はいたるところに湧泉が得られ,清流に恵まれたなだらかな傾斜地で,濃い緑に囲まれた山紫水明の景勝地であった。このような自然環境は,樹木・石・水・砂など良質の作庭材料を供給し,地形を巧みに利用した作庭が,奈良時代の自然風景式縮景法の延長線上に行われたと思われる。これらに東西2町南北4町(1町は約120m)に及ぶ神泉苑や冷泉院・淳和院・朱雀院などの庭園があったが,今はほとんどその姿はない。わずかにその規模の一部を残す神泉苑に,当時の庭園が豊富な湧水を貯え,これを巧みに利用した往時の姿をしのぶことができる。また,郊外の景勝の地を選んで離宮・別荘を営み,ここに大庭園をつくることはこの頃から始まっている。嵯峨院は現在の大覚寺であるが,その庭園の主要部は大沢の池として残存し,北岸に近い大小二つの中島や,池中立石,北部の名古曽の滝跡とともに平安時代初期のおおらかな面影をしのばせている。

 平安時代の後半になると,貴族の住宅様式は寝殿造りとなってその建築様式は普遍化し,それに伴って庭園の様式も寝殿造り庭園としてその形式を整えていった。奈良時代から受け継がれてきた海景の縮景庭園はこの時代にも広く用いられているが,莫然とした海景の模写から特定の海景の模写へと変化していった。奥州塩釜の海景や松島の浮島(河原院),丹後の天の橋立(六条院)の模写などがそれであり,これを主題に歌合せの催しが行われていることを思えば,日本庭園が文学的・情緒的であることも一つの特色といえる。【日本庭園の原点】平安時代後期は日本庭園としての形式を整えた時代であり,以降に展開する多様な日本庭園の原点ともなった。その庭園様式として,(1)寝殿造り庭園(2)浄土庭園を挙げ,それら作庭に関する技法の古典書として,(3)『作庭記』を挙げる。

 (1)寝殿造り庭園:平安時代後期に完成した公家住宅の様式を寝殿造りという。寝殿造りは,南面する中央正殿を寝殿として東西それぞれに対屋(たいのや)があり,寝殿と対屋は吹き放ちの渡殿(わたどの)で連結されている。東西対屋から南へ中門(ちゅうもん)を有する中門廊が延び,その先に池に面して東西釣殿(つりどの)がある。寝殿の南面には儀式のために白砂の広場を設け,その南に池を掘り,中島を置き,橋を架け,背景に筑山を築いた。遣水(やりみず)は北から寝殿と東対屋をつなぐ渡殿の下をくぐって蛇行し,中門の前を通って池に注いでいた。これは典型的な定式の寝殿造りの様式であるが,狭い敷地にはこの定式を省略した略式の寝殿造りが様々に建っていた。『作庭記』に〈池なき所の遣水は,事外にひろくながして,……〉とあるように,『作庭記』ではその略式の見せ方を種々述べているが,その定式を略式化していく見せ方に,後に展開される日本作庭手法の先駆的表現を見ることができる。

 寝殿造りの室内は1室住居で間仕切はなく,移動家具である几帳・屏風・衝立などを使っての軽い仕切のみである。建物の外周も壁はなく,蔀戸(しとみど)を跳ね上げればまったく開放されて室内外は一体となり,庭全体はパノラマのように見渡たせた。この寝殿造りからの眺めは『作庭記』の示すように〈生得の山水・国々の名所〉を縮景したものであった。また豊富な湧水を利用した流れを取り入れ,これを建物近くに流して滝・遣水とし,寝殿と対屋の間などの壺庭には,嵯峨野・紫野などの野の趣を移して野筋(ゆるやかな起伏を作る作庭法)をつくり,野草を植えて虫を放ち前栽(せんざい)とした。寝殿造りと庭園は,月に雪に四季折々を歌に詠む情緒的な文学の世界でもあり,また,建物近くにある滝・遣水野筋前栽は日本人の好む作庭の素材でもあった。

 (2)浄土庭園:蓮池の彼方は極楽浄土である。阿弥陀堂とそれをめぐる浄土庭園は,西方十万億土の彼岸にある極楽浄土の現世具現である。浄土教の諸教典に写実的に述べられた浄土のありさまを絵画化したものが浄土曼荼羅であり,それの多くは阿弥陀如来を中心に諸菩薩で組まれた仏群の後に,左右対称形の中央殿舎・側廊の楼閣を配し,前面に海を置く構図である。阿弥陀堂と浄土庭園の多くはこの浄土曼荼羅に基づいて構成されているが,とくに宇治平等院はこの浄土曼荼羅の構図を忠実にその寺院構成に写している。

 東西軸線上に,阿弥陀堂は西方浄土を背に蓮池に東面して建てられ,薬師堂は蓮池に西面して建てられるのが一般的であるが,地方によっては南北軸に建てられる場合もある。蓮池は阿字池と呼ばれ,中島へは橋が架かるがその先はない。人は池を渡って阿弥陀堂に達するのではなく,此岸から蓮池をへだてて広い水面に浮かぶ御堂の華曼形の窓を通して,金色の阿弥陀如来を拝するのである。

 現存する浄土庭園の代表的遺構は,宇治平等院鳳凰堂(1053・天喜1)のほかに,平泉毛越寺(もうつじ)庭園(12世紀)があり,建物はすべて失われているが,池の姿と局部はよく保存されている。また浄瑠璃寺(1107・嘉承2)庭園は九体阿弥陀堂と三重塔を具備した浄土庭園の貴重な遺構であり,いわき市白水阿弥陀堂(1160・永歴1)・奈良市円成寺(1153・仁平3)の浄土庭園は近年整備された。

 (3)『作庭記』:『作庭記』は寝殿造り庭園の作庭法に関する古典であり,その名称ははじめ『前栽秘抄』と呼ばれていた。豊富な作庭体験と綿密な自然観察から得た高度な作庭理論書であり,著者は藤原頼通の子の橘俊綱とされている。〈石をたてん事,まづ大旨をこころふべき也〉にはじまる作庭の基本項目のうち〈生得の山水をおもはえて…〉〈国々の名所をおもひめぐらして…〉の2項目は,寝殿造り庭園の作庭基本を示すとともに,日本における自然風景式庭園縮景法を示すものであり,以降,日本の作庭は様式こそ多様に展開するのであるが,その作庭の基本は終始この2項に外れることはない。

 本文はまず〈生得の山水・国々の名所〉を,築山・池・島・南庭白砂・遣水・滝の6要素と,前栽野筋・泉の添景で構成することを述べている。次にこの自然風景を限定された敷地に現実に表現するとき,〈1町(約120m四方の町割区画)の家の南面に,いけをほらんに,庭を八九丈をかば,池の心いくばくならざらんか。よくよく用意あるべし。〉にはじまるその見せ方の文章は,〈嶋より橋をわたすこと,正く橋がくしの間の中心にあつべからず。すぢかへて橋の東の柱を橋がくしの西のはしらに,あつべきなり。〉,〈三尊仏の立石を,まさしく寝殿にむかふべからず。すこしき余方へむかふべし。〉などのように奥行きがあるように見せる見せ方や,〈嶋ををく事は,山嶋を置て,海のはてを見せざるやうにすべきなり。山のちぎれたる隙より,わづかに海を見すべきなり〉のように,全容を見せず期待感を抱かせる手法など,日本独自の縮景手法が述べられている。『作庭記』はおおらかな日本の自然風景のありようを,限定された敷地に表現する手法についてこと細かに述べたものであり,以降に展開する日本庭園の原点を示した作庭の古典ともいうべきものである。

 日本における自然風景式,そのうちでも海景・名所の姿を借りる縮景式の源流は,遠く飛鳥時代にさかのぼるのであるが,これが日本の庭園としての原形を形づくるのは平安後期の寝殿造り庭園,浄土庭園であり,その技術古典書として位置づけられるのが『作庭記』であった。以降日本庭園枯山水書院庭園・露地・廻遊式庭園など多様な展開を見せるのであるが,それら様式の原点は多くこの時代の作庭に帰納することができる。

【自然風景の抽象表現 枯山水】室町時代〜:1室住居であった寝殿造りは,この時代になると南面に儀式の空間を残しながら,北面に寝室・書斎など日常生活に活用する小部屋がつくられた。南面を晴(はれ,公・儀式の場),北面を(け,私・日常の場)という。間仕切によって造作された小部屋の発生は,寝殿造りの室内外を一体化した庭とのつながりを一変して,狭い視界によって部屋と庭が相対しながら交流するという北庭の特質を生むこととなった。小部屋に座った人と庭とのかかわり合いは,舞良戸(まいらど,引違い雨戸)の明けられた半間を額縁として,四周を切り取った庭と常に1対1で相対することとなり,庭には密度が要求される。加えて人は縁を歩くことによって,室内からは点としてあった庭と庭は,一つの庭として線状にまとまらなければならない。寝殿造り庭園を構成する素材のうち,遣水上流に位置する滝および遣水は,この密度の高い北庭を作庭する素材として最も適切な材料であった。滝を石組に,水を白砂や苔に置き換え,現実感を取り除いて抽象的に表現する手法を“枯山水”という。この北庭枯山水の代表的な例として大徳寺大仙院庭園妙心寺退蔵院庭園を挙げることができる。

 寝殿造り庭園の南庭白砂は儀式の広場であったが,この時代,南庭白砂は儀式の場ではない。用のなくなった限られた白砂の広場に,切り取られた海(池・島)を重ねながら,北庭の枯山水を受けて,当時の禅僧たちは自由に抽象表現を行っている。筑山としての構図を敷地外の山並みや樹林に借りることを“借景”という。この庭を観賞する人は,限られた庭から遠い山並みを見ることによって,無限定の広さへと導かれる。これらの代表的な例として,竜安寺方丈庭園大徳寺本坊南庭借景としては円通寺庭園などが知られている。

 この時代で注目されることは,平安時代後期から鎌倉時代にかけて,作庭を半ば職業的に行う石立僧が出現していることである。この石立僧のうちで最も傑出した人は夢窓疎石(1275〜1351,建治1〜観応2)である。西芳寺庭園・天竜寺庭園はその代表作であり,足利義政の東山殿慈照寺銀閣寺)作庭はその範を西芳寺に求めたものである。また,この時代には山水河原者と呼ばれる作庭の専門家が出現し,善阿弥(1386〜1482,至徳3〜文明14)とその子小四郎,孫の又四郎は傑出した作庭の名手であった。

【自然風景の濃縮表現書院庭園】安土・桃山時代〜:中世における武士階級の台頭は,寝殿造りの晴(南面)と(北面)の住宅構成に,武士としての上・下の格式を東西方向に加えて対面形式を様式化していった。すなわち,上段・下段という高さと,上座・下座という距離を様式化し,その格式の表現として“上段座敷飾り”(押板・違い棚・付書院・帳台構え)の定形化と,それらを飾る金箔濃彩画の“狩野派障壁画”による書院の豪華な空間をつくりあげた。このようにして寝殿造りから書院造りへと変容していった。

 書院造りの変化に対応して庭園も変容する。寝殿造り庭園の構成要素(筑山・池・島・南庭白砂・遣水・滝)のうち,禅院庭園で主要な役割を占めていた抽象的な南庭白砂を取り除いて,池を書院近くに引き寄せ,筑山・池・島・遣水・滝の5要素を濃縮化・凝縮化して,豪華な上段座敷飾り・狩野派障壁画にふさわしい,きわめて具体的な観賞庭園が造られた。これらの庭園は,山・滝・水流・池・島を自由に使って複雑に構成され,石組・庭木も多く,枯山水を“草”とするならば,書院庭園は格式ある“真”の庭園というべきものである。

 福井市足羽村一乗谷の朝倉館庭園,滋賀県朽木村旧秀隣寺の朽木氏庭園,三重県美杉村の北畠氏庭園などは武将らしい豪壮な石組みを残しているが,これら庭園の遺構は室町時代のもので,書院造り庭園の先駆をなすものとして貴重である。書院造りと庭園の関係は,大津市園城寺光浄院客殿(1601,慶長6),京都醍醐寺三宝院庭園(1593,慶長3頃)に初期書院造りとその庭園の姿を見ることができる。江戸時代初期の京都二条城二の丸御殿(1624,寛永1)は完成された様式を備える書院造りとその庭園であり,壮麗な書院とそれに対応する書院庭園の典型を観賞することができる。

 禅院庭園・枯山水書院庭園は,まったく異なった様式の庭園ではあるが,いずれも自然風景を縮景して,一方は白砂・苔を主体として抽象的に表現し,他方はこれを濃縮化・凝縮化して具体的に表現した,共に純粋な観賞庭園である。これら庭園は建物内部から観賞することを主な目的としているため,いずれも観賞の主方向をもって構成されている庭園である。

(1/3:続く)

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