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●土一揆 つちいっき

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 中世後期の室町時代に,農民が徳政令の発布を要求したり,年貢増徴に反対して起こした一揆をいう。土民一揆の略語であるから,本来「どいっき」と呼んだものであろうが,室町時代から「つちいっき」と呼ばれていた。

【土一揆の時代的位置づけ】南北朝時代から戦国時代に至る中世後期は,「一揆の時代」といわれるくらい,社会の各階層のあいだで多様な形の一揆結合が盛んに行われた。そのうち農民の一揆についてみると,まず個々の荘園ごとの荘家の一揆が見られ,ついで広域にわたりより強力な発展した形態としての土一揆が出現するようになる。それと並行して,中小の武士層は国人一揆という地域集団を結成し,軍事的戦闘集団として活躍した。戦国時代になると,各地に国人・土豪層の主導権のもとにおよそ一郡ないし半部規模ほどの惣国一揆が出現し,地域の自治的な権力を樹立した。また浄土真宗本願寺派の門徒である国人・土豪・百姓は,寺院・道場を中心に一向一揆を結び,各地の戦国大名と抗争したのであった。このように中世後期においては,一揆が社会の各階層において組織されたのであるが,そのなかで最も数多く起こり,かつ影響力の大きかったのは土一揆であって,国一揆や一向一揆は,土一揆の発展形態と見ることができる。

【おもな土一揆年表】

1354(文和3)近江に土一揆起こる。土一揆の語の初出。

1428(正長元)9月〜12月に山城に土一揆起こり,京に攻め入って徳政を要求。徳政行われる。11月大和に土一揆起こり奈良に攻め入って徳政を要求。

1432(永享4)9月大和土一揆

1433(永享5)7月近江の馬借蜂起して京を攻める。

1441(嘉吉元)9月山城の土一揆,徳政を要求して京に攻め入る。一揆勢が16カ所に陣どり数万に及ぶ。

1447(文安4)7月山城西岡の土一揆,徳政を要求して京に攻め入る。

1451(宝徳3)大和土一揆徳政を求めて奈良に攻め入り,元興寺興福寺大乗院を焼く。

1454(享徳3)9月山城土一揆,12月大和土一揆。

1457(長禄元)10月山城土一揆,徳政を求めて京に攻め入り土倉兵と戦い,ついで幕府兵八百騎と合戦して勝つ。以後50年間,毎年土一揆が,山城・大和・近江地域に起こる。

1473(文明5)加賀一向一揆が盛強となる。1488年には守護富樫氏を滅ぼす。

1485(文明17)山城の国一揆起こり,国中の武家を追う。

正長の徳政一揆】大規模な土一揆の最初のものは,1428年のいわゆる正長の大一揆である。この年は全国的に飢饉でそのうえ流行病も広まるという状況で,各地に不穏な動きが見られたが,9月18日に醍醐の地下人が徳政と号して蜂起し,方々の借書をせめとって焼いた。借書は借金証文のことで,それを奪って焼いて,借金の証拠をなくしたのである。つまり幕府の徳政令の発布もないのに,実力行使によってその実をあげたのである。それを起こした地下人とは,農民と地侍をさした。この騒動に対して,細川氏が数百騎の兵をもって醍醐の寺内を警戒し,赤松氏も二百騎の軍勢をもって山科に陣どって警戒にあたったので,ひとまずおさまる形となった。しかし9月末には再び京の町のなかで徳政と号する騒動が起き,11月に入ると大騒動に発展し各所に放火する有様であった。その間に東寺に立てこもって陣をとり,そこから市中に打って出て活動する戦法をとった。土一揆勢が徳政と号して酒屋・土倉に乱入し,その質物をおさえたりしているのでこれを私徳政の蜂起と,当時の記録は記している。また幕府が,諸家の被官人が土一揆に参加しないように命じ,請書を出させているのであるが,それは細川や赤松のような武家の家臣も土一揆に参加する危険性があったからにほかならない。土一揆参加者が,たんに農民や地侍だけでなく,れっきとした武家の家臣がときには入っていたことを物語る。この年の土一揆は,京都だけでなく,奈良にも頻発したし,そのほか伊賀・伊勢・宇田・吉野・紀伊・和泉・河内・堺などにも起こり,〈日本国ノコリナク御得政ナリ〉と当時の記録に記された。このように隣接した各所に起こっているけれども,連合体にはならなかった。

嘉吉の土一揆正長の土一揆のあと14年を経て1441年(嘉吉1)にまた京都に大規模な土一揆が起こった。正長のそれとともに代表的なものとされている。嘉吉元年6月24日,赤松満祐による将軍足利義教暗殺という大事件が起き,幕府のみならず,支配者層のあいだに深刻な動揺を与えた。赤松討伐軍はいたずらに遅延し,侍所の山名持豊は陣立と称して京中の土倉に乱入して質物を押取る状態で,それを咎めた管領細川持之と合戦に及ぼうとさえする有様であった。この幕府の危機に乗じて,「土民数万」(『建内記』)の大一揆が起きたのであった。今回の一揆もまず近江から始まり,守護六角氏が徳政令を出した。京都では8月末から騒然となったが,その有様を『東寺執行日記』によってみると次のとおりである。土一揆が徳政と号して在々所々から京中に攻め込んできた。清水坂で京極氏の軍勢と合戦をして,京極方に50人,土一揆側に10人の負傷者を出した。9月に入るとその勢いはますます大きくなり,鳥羽吉祥院以下中道より東の一揆は東寺にこもってその数2〜3,000人。丹波国の一揆は今西宮に1,000人こもり,西八条には五カ庄のものたち1,000人。西岡衆2〜3,000人は,官庁・神祇官・北野・ウヅマサの社寺にこもっている。そのほか出雲路口・河崎将軍塚・清水・六波羅・阿弥陀峯・東福寺・今愛宕・戒光寺以下四角八方に陣を取りまわし,毎日京中に攻め入る。一揆の陣は16カ所もある。以上が東寺の日記の記すところであるが,こうした土一揆の活動に対して,市中の安全をはかるべき侍所や管領の武家は手が出せなかった。最初,土一揆の蜂起がせまったとき,京の土倉たちは急いで管領のところへいき,千貫文の賄賂を贈って土一揆の鎮庄を頼んだ。ところが一揆が盛んになると,在京の諸武家は管領の命令に従わないので,結局管領は千貫文を土倉に返して手を引いた,という有様だったのである。こうして9月12日,幕府は一国平均徳政令を出さざるを得なかったのである。この徳政令によって質物取戻し,借書破棄が行われたが,一揆はさらに永代沽却地・年紀契約地を含めた徳政令を要求し,閏9月10日にそれが認められた。その内容は,(1)永代沽却地は20年未満ならば本主へ返すべし。ただし凡下は領主の計に任すべし。(2)幕府の安堵を受けた地・売寄進地・祠堂銭は徳政対象としない。(3)本銭返の土地と同じく家・年季売した土地・質券地・借書については徳政を行う。(4)土倉などで質流れになった質物で,約束の月が過ぎたものは徳政対象としない。以上のとおりであった。この嘉吉の徳政一揆はその規模の大きさと徳政令獲得という成果によって,中世後期の頂点に立つ土一揆といえる。

【土一揆の諸形態】土一揆の要求内容が,徳政令の発布である場合これを徳政一揆と呼んだ。土一揆の大部分がこれで,幕府・守護・荘園領主が,それぞれの規模に応じて徳政令を出している。土一揆が実力行使によって私徳政を行ったこともある。関所の廃止を要求したものは関所一揆という。それに対し,一揆を起こした主体が馬借であった場合には,これを馬借一揆と呼ぶ。近江の馬借がしばしば京都に乱入している。土一揆は,貴族・寺社などの荘園領主,および土倉酒屋と共生関係にあった室町幕府の勢力を,その足もとにおいて突き崩し,近世的封建支配確立を促進する役割を果たした。その意味で,国一揆・一向一揆はその発展の線上に位置づけることができるのである。

〔参考文献〕中村吉治『土一揆研究』1974,校倉書房

中村吉治『徳政と土一揆』1966,至文堂

中村吉治『一揆2』1981,東大出版会