50音順    検 索

●津田左右吉 つだそうきち

アジア 日本 AD1873 明治時代

 1873〜1961(明治6〜昭和36)歴史学者。岐阜県米田東栃井の士族の家に生まれた。1887年(明治20)国民新聞創刊号の田口卯吉の論説「国を建つるの他は幾何ぞ」に深い感銘をうけ,のち東京専門学校へ入学。1891年(明治24)卒業。澤柳政太郎に寄寓。そのあと富山県の本願寺別院附属学校教授をつとめ,上京,白鳥庫吉の庇護を受ける。また中等教師を群馬県立中学・千葉県立中学・宇都宮中学・千葉中学校教師,独逸協会中学校教師などをつとめる。教科書『新撰東洋史』『国史教科書』出版に従事したこともある。1907年(明治40)満鮮地理歴史調査室研究員につとめ,本格的な研究調査生活に入る。

【津田左右吉の学業】白鳥批判の形をとった論文を基礎に「神典の解釈」を推し進め,『神代史の新しい研究』(1913)に発表,これを出発点として『古事記及び日本書紀の新研究』(1919),これを改訂して『古事記及日本書紀の研究』(1924)刊行,『神代史の研究』(1924)を経て『日本古典の研究』を補正しつづけている。もちろん彼の基本型『神代史の新しい研究』のなかで示したものは変わらなかったが,自己批判を重ね丹念に書き込みをつくっている。この業績は学問的考証につとめている。記紀をもって皇室由来をとくため政治的作為がとられ,伝説や民間説話で潤飾が加えられている,といっている。白鳥批判に出発しているように白鳥博士とは見解のちがう点が多い。今一つは『文学に現はれたる我が国民思想の研究』である。しかしこの著作より,『神代史の新しい研究』が津田史学の出発点である。

【津田史学の志向】津田の知的情的関心は古典的・現代的知識・芸術の吸収に貪欲そのもので,常に個性的批判力育成につとめ,文学青年的ローマン主義的傾向をもち,狂気と風雅のあいだに生きた。明治啓蒙思想家の精神を継承し,主体的批判精神によって政治批判の心をもち,それが独自性を保つ要因となった。津田は維新史への関心も強く親藩の領地に生まれたせいか佐幕派的史観に立つ。したがって維新史を書く志をもちつづけた。津田の国民思想の研究は,尊王思想は決して倒幕思想ではなかったと決めている。彼は自我の尊重にいき,自我を外から規制する形式的なものへの批判,前近代的道徳・封建思想への批判を一貫させている。そして専制・官僚主義批判,絶対主義的=非立憲的政治批判,国際問題への関心は軍国主義的侵略主義へ批判をもっていき,国民・民衆の自主的主体性の立場に立とうと考えた。歴史的変化発展の認識は日本人の固有の国民性を否定し,近代西欧文化の輸入受容を意義づけ,社会問題や社会主義についても外来思想として一括して伝わることに反対し,とるべきものをとる立場に立つ。婦人問題・家族制度に対しても古いものを批判し,因襲的な自然−芸術観を批判し,日本の伝統芸術への不満を明確にしている。彼は否定的中国観と,生活力の弱いという朝鮮観をもち,劣った沖縄のイメージをもちつづけている。また既成仏教教団批判は強いが宗教思想には通じている。その立場から国民思想を読むと理解しやすい。

【津田史学の意義】津田は天皇制を合理化し近代化し皇室の存続を願い,社会主義を力で弾圧することを反対した自由主義的歴史家であった。彼は民衆の心意の支えをうけていたからマルクス主義には反対であったが,思想の共存を認めていた。日本思想の鼓吹を批判し,祭政一致論を批判,アジア主義批判にいき,時局便乗をいましめた。その結果津田は天皇不親政の告発をうけ,津田の天皇不親政を日本の伝統とする所見を,大逆思想としている。そしてその古代・上代史に関する著書を「皇室ノ尊厳冒涜云々」で岩波茂雄とともに裁判に附せられた。しかし津田は裁判闘争を通じて,自分は不敬どころか,天皇を敬愛していることを述べつづけた。この立場は,全く戦後に至るも変わるところがない。津田史学の本領である。

〔参考文献〕家永三郎『津田左右吉の思想史的研究』1972,岩波書店