●対馬 つしま
アジア 日本 AD
【古代・中世の対馬】対馬の名は〈津島〉(『古事記』)・〈対馬嶋〉(『日本書紀』)・〈都斯麻国〉(『隋書倭人伝』)などと種々記されているが,対馬は津島で海津のある島という意味に解する(『日本書紀纂疏』)のが一般とされている。『魏志東夷伝』倭人の条には朝鮮半島の拘邪国から〈始度一海千余里,至対馬国〉と記されており,大和朝廷の統一前からその名称が用いられていたことがわかる。この書によれば,対馬の山は険しく道は禽や鹿の径のようなものしかなく1,000戸ばかりの住家があり,田を耕しているが自給できないために朝鮮半島まで米を買いに行っていたとある。また2〜3世紀当時,対馬は女王国に属し卑拘と呼ばれる大官と卑奴母離と呼ばれる副官に治められていたらしい。『三国史記』408年(新羅聖王7)の記事に〈王,倭人営を対馬に置き,貯うるに兵革資粮を以てし,以て我を襲わんことを謀る〉とあるように,大和朝廷統一後の対馬は半島進出の兵站基地となっていた。やがて『日本書紀』562年(欽明22)正月の条におこった〈新羅,任那の官家を打ちて滅す〉事件のため朝廷の半島支配は後退し,さらに663年(天智天皇2)同盟国百済国すら唐・新羅連合軍による白村江の戦いで滅亡し,以後対馬は唐・新羅の侵攻に備える防衛基地へと役割を転じていった。このため664年には防人が配置され8カ所の烽(トブヒ)が設置された。敵の侵攻を知らせる烽は対馬から壱岐を経て大宰府まで伝えられた。加えて667年には現美津島町黒瀬の城山に金田城が築かれている。1019年(寛仁3)には奈良・平安期を通じ最大の外敵侵入である“刀伊の入寇”が起こった。これは中国東北部の女真族が約50隻の船で同年対馬を急襲したもので,当時日本側は相手の正体をつかめず“夷狄”の意味から“刀伊の賊”と呼んだ。このとき対馬守遠晴も防戦したが36人が殺害され346人が捕獲された。1274年(文永11)元寇の波はまず対馬に押し寄せ,モンゴル・高麗連合軍4万人が対馬佐須・小茂田浜を襲い,立ちむかった地頭代宗助国以下80騎を破り島内を蹂躙した。宗氏については,通説によれば,大宰少弐武藤氏の命を受けた宗重尚が兵を率いて対馬に渡り,大宰府の命に従わない在庁官人阿比留平太郎を討ち,その功によって対馬国地頭職を受けている。宗氏と朝鮮とのあいだに正式の通商関係がもたれるのは1397年(応永4)以降であるが,1419年には朝鮮の大軍が対馬を襲った。これは朝鮮の世宗初年に上王太宗によって計画された外征で“三島の倭寇”と恐れられ,海賊の巣窟・通過地とみなされた対馬の軍事勢力を掃蕩することによって倭寇の禍根を一掃しようとしたものであり,応永の外寇と呼ばれる。しかしながら,この1420年正月22日宗貞盛は朝鮮側から〈宗氏都都熊瓦〉の印を与えられ貿易上の特権を得ることとなった。【近代以降の対馬】対馬における兵農分離は,明確な形では実施されず地方給人が多く,給人のもとに名子被官があり中世以来の姿を残していた。1661年(寛文1)には全島の検地が行われたが,石高制によらず間尺法をもとにした“間高制”がとられた。豊臣秀吉による文禄・慶長の役は,朝鮮貿易から利益を得ていた宗氏にとっては大きな打撃であった。そこで,江戸幕府成立後,宗氏は日朝間の国交回復に奔走し,1609年(慶長14)には己酉条約でそれを実現し,宗義智は幕府から10万石の大名に列せられ,日鮮貿易の独占と参勤交代も3年に一度でよいという特例などを与えられた。対馬藩は鎖国下で外国に渡海して貿易を行うことを許された唯一の藩となった。朝鮮の草梁項に設置された“倭館”は出島の25倍の広さを誇り450人(1678年・延宝6)の対馬人がいたといわれる。幕末,1861年(文久1)3月4日,ロシアの軍艦が対馬芋崎浦古里に強制上陸した。ポサドニック事件である。すでに対馬は黄海と日本海を制圧するための軍事拠点として,露・英・仏3国が占拠をねらっていたのである。以上のように,国境の島としての対馬がもつ要石としての役割は,古代から現代に至るまで一貫した歴史的特性を表している。1869年(明治2),宗氏は版籍を奉還,対馬藩は厳原藩と改称され,1871年(明治4)の廃藩置県により厳原県となった。以後,長崎県・伊万里県・佐賀県・三琢瀦県と代わり,今日長崎県に属している。
〔参考文献〕『長崎県史』1980,吉川弘文館
瀬野精一郎『長崎県の歴史』1972,山川出版社