●佃煮 つくだに
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魚貝やノリなどに醤油・砂糖・味醂を加え黒褐色に煮つめた日本固有の保存食品。徳川家康の江戸入府のころ,摂津国の多田神社・住吉神社に参詣の際神崎川に渡船がなく西成郡佃村(現大阪市西淀川区佃町)などの漁師が船を出して渡らせたことがあった。その縁で家康が伏見城にあったときは御膳魚を献上するように命ぜられ,また西国への用状の急達にも船を差しだてるように特別の御用をおおせつかったという。このため大坂の陣に際しては軍事上の密使を運んだり御膳魚を搬入するなど,さらに家康の信用を増すことができた。17世紀の江戸開府に際しては徳川家奉公の行賞として佃村の漁師34名が江戸に召しだされ浅草川で家康らの遊漁がなされたときには網をひいてみせ,1813年(慶長18)8月に海川漁猟の免許を得た。のち鉄砲洲の東の干潟を拝領し,ここを埋め立てて島をつくり1644年(正保1)2月に摂津の住吉神社をひいて移住,旧村の名をとって佃島とした。佃島の漁師たちは毎年11月から3月までシラウオをとって献上することを命ぜられ,そのあいだの江戸前のシラウオ漁を独占した。江戸っ子にとって初夏のカツオとならんで冬のシラウオは大層人気のある珍味であった。『江戸名所図絵』にも「佃島白魚網」として夜間カガリ火をたいてシラウオ漁を催し,それを肴に酒を楽しむ図が紹介されている。『柳多留』に〈つくだ島汁のみまでもわたりもの〉とうたわれているが,先住漁民の新入植者に対する反感があったようである。住地は与えられても湾内の漁業は先住の漁民が既得権を主張して譲らなかったから,幕府は救済策としてシラウオの漁権を与えたのである。シラウオは寛永年間(1624〜1643)尾張大納言家から献上品として伊勢湾から品川沖へ移殖したものが繁殖したもの。新漁権であるからどこからも異議がでなかったが,漁期が限られ短く,それだけでは生計が成り立たないのでシラウオののぼる川筋の縁から隅田川上流の沿岸漁民と結び淡水魚の魚獲の主導権を握ったのが佃島の活路となった。城中ならびに諸侯に納める以外,独立しては用途に適さない小雑魚の類を煮つめて市販することになる。濃厚な味と,保存に耐えしかも安価なので各地から集まる新興都市の江戸の裏店から大店の副食として受け入れられ,やがて下級の勤番侍が参勤交替で帰国するときの江戸土産や進物として曲物や重箱につめて人気を得た。江戸湾沿やそのほかの地域でも同じ製法の芝煮や品川煮などが需要を充たしていた。『東海道中膝栗毛』にみる伊勢国冨田の名物,焼きハマグリとともに桑名にかけての煮ハマグリも一種の佃煮といえる。佃煮の商品名が使われだしたのは,幕末に近く19世紀の後半という。明治維新で禄を失った旧武士が開業するほど東京名物にもなった。明治末期には,スルメ・蓮根・ダイズなど6品を加えて岡山名物「六宝煮」や新製品スルメの佃煮が大衆にうけた。大正期には佃煮と並行してふりかけが出現し,陸海軍をはじめ工場給食やサラリーマンの腰弁や駅弁にも利用された。いずれも米飯の供としての特徴を発揮したわけである。現在使われている佃煮の主な材料は,魚類ではカツオ・マグロ・ハゼ・ワカサギ・小ブナ・小ダイ・小カレイ・シラス・コウナゴなど,貝類ではアサリ・ハマグリ・カキ・アカガイなど,乾燥水産物としてはスルメ・コンブ・干ノリ・小魚・干エビ・干タラなど,ほかにエビの類があげられる。佃煮の種類としては,初めは醤油で煮つめたものが主であったが,最近は糖類を多く加えた甘味のあるもの,材料を油で揚げたあと煮たものもつくられている。ハマグリなど貝類を,醤油にショウガやサンショウなどを加えて煮つめた時雨煮(しぐれに),水飴や砂糖などをたっぷり使って汁気のなくなるまで煮つめた甘露煮,醤油や酒や味醂などで材料を煮つめたあとさらに水飴を加えて,さらに煮つめた飴煮などがある。〔参考文献〕農林水産庁編『佃煮便覧』1951,佃煮便覧刊行会
斉藤幸雄『江戸名所図会』1979,新興社
北原進・山本純美『中央区の歴史』1979,名著出版