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●成吉思汗 チンギス=ハン

アジア モンゴル国 AD1167 遼・西夏・金

 1167ごろ〜1227(在位1206〜1227)モンゴル帝国の創立者。廟号は太祖。幼名はテムジン(鉄木真)。モンゴル部族ボルジキン氏族のキャン家イェスゲイ(也速該)の長子。テムジンが幼少のとき,父がタタール部族に毒殺されると,彼の部衆は離散して苦難の道を余儀なくされた。やがて,ケレイト部族のワン=カン(王罕)の援助のもとに,分散した部衆を集め,モンゴル部族内に確固たる地位を築き始め,1188年ごろにはモンゴル部族の統一に成功して可汗となった。その後,宿敵タタール部族,ケレイト部族を滅ぼし,1204年にはトルコ系のナイマン部族を平定した。かくして,モンゴル高原の諸部族を征服し,1206年にはオノン河畔に即位してチンギス=ハンの称号を得,クリルタイを開いて統一国家の機構を定めた。つづいて,西夏征伐,金国の功略,遼東・遼西の経略を推し進めたが,たまたま西アジアの大国フワーリズム国王が,モンゴルの使節団をオトラルで虐殺したため,チンギス=ハンの大征西が始まった。1219年より,オトラル・ボハラ・サマルカンド・ウルゲンチ・バルフなどの諸城を攻略して中央アジアを平定するとともに,ジュベ(哲別),スブタイ(速不台)をして,フワーリズム国王をカスピ海の孤島に窮死せしめ,南ロシアを征服,1225年に帰国した。ついで,征服諸地域の分封を行い,シベリア南西部,南ロシア一帯の地をジュチに,西遼の故地をチャガタイに,ナイマン部の故地をオゴタイに与えた。さらに,1226年秋には西夏への攻撃を再開し,首都寧夏を包囲したが,1227年秋,出征先の六盤山で病没した。チンギス=ハンが,ユーラシアにわたる遊牧帝国を築きえた理由として,イスラーム隊商群をよく把握し,その財政的支持と各地の情報を得ることに成功したほか,最大の要因として彼のすぐれた軍事的才能,そしてその軍事制度があげられる。すなわち,ミンガン(千戸)を基本単位とした軍事・行政組織であり,モンゴル帝国特有の宮内組織ともいうべきケシクティ(怯薛歹)と称する親衛軍団制度の完備である。さらに,その治世の指導原理は,ジャサとビリク(戒訓)に示されている。なお,チンギス=ハンの一生,およびオゴタイ=ハンの治世初期を記述したものに『元朝秘史』がある。

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