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●徴兵令 ちょうへいれい

アジア 日本 AD1873 明治時代

 1873年(明治6)1月10日発令され,国民に兵役義務を課した法律である。明治新政府が発足と同時に当面した最も重要な課題の一つは,兵馬の大権を確立することであった。そのため最初の官制(1868・明治1)に海陸軍務課が設けられ,ついで1869年には兵部省,1872年に陸海軍省へと,官制の面では着々と整備されていったが,天皇の直属軍隊が創設されたのは,1871年2月,薩・長・土の3藩が拠出した約8,000人の御親兵であった。もっともそれまでも,郷士や浪士の集まりで,約400人程度の御親兵が置かれていたが,単に天皇の護衛兵たるに過ぎなかった。1969年6月,政府部内で兵制に関する論争が行われ,大村益次郎を中心とする長州藩は,国民徴兵制による中央直属の常備軍建設を主張したのに対し,大久保利通を先頭とする薩摩藩は,薩・長・土の3藩の精兵を中央に備えることを主張した。前者は不平氏族を敵とし,後者は現に頻発している農民,町民の一揆反乱を対象においたのである。論争の結果は大久保側に軍配が上がり,大村の農民徴募案は退けられ,したがって以後は各藩主体で進められた。さきの御親兵も天皇直属ではあったが,この線を超えるものでなかった。またこの少し前の1870年11月発布された徴兵規則も,徴兵制を掲げてはいるが,徴兵の実施を各藩に任せたもので,近代的徴兵制度とは相いれないものであった。したがって,欧州の兵制研究によって国民皆兵主義に立った徴兵制度の必要を痛感して帰国(1870年8月)して,兵部省の実権を握っている山県有朋西郷従道は,徴兵規則を飽足りなく思ったであろうが,これでも藩制度が現存する下では徴兵制へ数歩をすすめたことになる。もっとも徴兵規則はほとんど実施されずに終わった。やがて1871年7月廃藩置県が行われるや,山県(兵部大輔),西郷(同少輔),川上純義(同少輔)は軍事政策確立の建議をし,徴兵制度の採用を強調した。つづいて山県は〈論主一賦兵〉と題する意見書を発表した。これは徴兵令の草案ともいうべきもので,制定された徴兵令は,だいたいにおいてこの意見書を基礎としている。意見書は,兵制は民兵を前提とし,これに壮兵志願兵)と賦兵(徴兵)の2種があるが,その長短を対比するとき,明らかに後者によるべきというのが論旨である。かくて11月28日〈全国徴兵の詔〉が発せられ,〈国民皆兵制度がわが国古昔の兵制であったこと,この古昔の制にもとづき,諸外国の方式を参考に定める〉等の大方針を明示した。さらに同日,政府はこの語を敷衍した「大政官告諭」を発し,ついで1873年1月10日徴兵令を発布した。この徴兵令によれば〈徴兵は国民の年甫めて20歳に至る者を徴し,以て陸海両軍に充てしむ〉,〈常備軍は本年徴兵の抽せんせし者を以て編成し,3カ年の役を帯ばしむる〉,〈常備軍の兵役を終わった者を第一後備軍の兵役2カ年,ついで第2後備軍の兵役2カ年の義務を負はせる〉,〈全国男子17歳より40歳迄の者,悉く兵籍に載せ置き,全国大挙の役あるに方り,均しく隊伍に編入し,以て管内の守備に供する〉ものとされた。ここに明治政府による徴兵制度は確立されたのであるが,種々の反対を排して,大村益次郎山県有朋が一貫して主張した徴兵制の論拠がどこにあったかを顧みると,(1)この兵制は,日本古来の軍制である四民平等国民皆兵に復するものである。(2)四民平等の建前からは,特定の階級(例えば武士階級)に限るべきでない。(3)志願制をとれば志願兵はほとんど武士となるであろう。(4)幕末の農兵隊の実績から,武士以外の者の軍事能力が実証された。(5)西欧諸国は多く徴兵制を採用する等があげられる。これにより第1回の徴兵は,4月末東京鎮台に入営し,以後日本兵制の根幹となりつづけた。初期の規定には,大はばな免役条項や代人制を含む等の不備があったが,のちに改正された。また種々の理由から徴兵制に反対する声は,国民のごく一部ながら絶えなかった。しかし,兵員の徴募が国家の一方的意思によってできたので,数次の戦争によく耐えたこと等,徴兵令の果たした役割はきわめて大きい。

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