●町人 ちょうにん
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江戸時代の都市に住む居と地所をもつ商工階級のことである。厳密にいうと地主と家持の市民権をもつ者が町人といわれるわけである。しかしふつうには都市に住む,武士からも百姓(農民)からも区別された者をいう。町人のなかには商人も職人も含まれるわけであるが,主として商人を町人ということもある。室町時代には対明貿易が開けてから和泉の堺や筑前の博多など貿易都市として発展し,とくに堺は戦国時代には富の蓄積と人材の輩出によって町人による一種の自治制を打ちたて,独特の町人文化を築くまでになった。また京都では町衆(ちょうしゅうまたはまちしゅう)といわれる上層的存在となる。町人はまた町人(まちびと)ともいわれ,すでに鎌倉時代から京都・鎌倉などに定住する店棚を営む人々として現れている。しかし,社会構成の身分として固定した働きをなすに至るのは,安土桃山時代となってからであろう。兵農分離がすすみ,大名領がなりたつと武士は城下町に集中居住し,また各地に市(いち)ができ,商品流通が発達すると,また消費生活が展開すると,商工業に従事する町人身分が顕在化する。各地の港町や門前町(寺内町)でも同様なことが現れる。町衆や町人は年寄役や月行事によって町の運営が決定される。堺の会合衆(えごうしゅう)(納屋衆)のごとし。それは地侍的要素をもつ都市の富商層であった。ところがこれと並行して城下町が形成されるようになると,町人の役割は封建体制に寄生した商人層・職人層ということになる。江戸時代の幕藩体制になると,各地の城下町と江戸・大坂を結ぶ商品流通網が形成される。参勤交代の制度で諸大名の妻子を江戸に居住させる。諸大名の財政は収入の半ば以上を費やさせ,彼らは国元の米を大坂にまわして金に換え,それを江戸におくって消費した。そのため享保年間すなわち18世紀の初めに江戸は80万,大坂は50万の人口をもつ大都市になる。全国各地の大名の城下町も商品貨幣経済の発展によってそれぞれ繁栄する。諸大名には城郭,寺社の造営,河川・街道の修理を命ずる。幕府では将軍綱吉の奢侈生活あり,軍用金を使い果たす。諸大名・幕府の浪費した金は町人の手に,とくに大坂・江戸の町人のもとに流れこむ。武士階級と町人階級のあいだには厳然たる身分的差別があり,町人は帯刀を許されず,住居・衣服そのほかにおいて身分的制限をうけた。士農工商といわれ,身分的には百姓の下におかれていたが,百姓よりははるかに優遇され運上・冥加のほかに課税もなく,江戸・京都・大坂・堺・奈良・長崎は幕府の天領で直轄地となり,江戸・大坂・京都・堺の町人は永代にわたり地子(地租)免除であった。百姓は農業に専心すべく,商業を許さず,武士に対しては商行為は賤しいものという考えから,商行為にはたずさわれなかった。町人のみが商行為を許され,実際的には町人は利潤の独占が許されていた。町人の致富は,武士身分も町人階級に依存して生活せざるを得なくなる。幕府および諸藩は江戸・京都・大坂の富商に御用金を命じ,また彼らの前に首を垂れて借財をなし,その融通によってようやくやり繰りをなす有様であった。「経済的」に「今の世の諸侯は大も小も皆首をたれて町人に無心をいい,江戸・京都・大坂の其外処々の富商に憑で其続け許りにて皆世を渡る」とあるのをみると,いかに富商に依頼するところの大なりしがを知るとともに,国内の金権を掌握せる町人の勢力がいかに強大となるに至ったかを知ることができる。また三井家の先祖である三井高房の著した「町人考見録」は京都の富商およそ50家につき,元禄前後約50〜60年の間に大名貸や驕奢のために破産した大略を記述したものであるが,それをみると加州・薩州・長州・土佐・佐賀・米沢・福岡などの大名が京都の町人から借財をなし,その融通によってようやくやり繰りをしていたことが明らかである。当時の諸侯は大坂や江戸に蔵屋敷を設け,米穀やそのほかの国産を売却し,またそれを抵当として金を借りていたものである。大坂の掛屋は江戸の札差に対して扶持を与え,家老同様の待遇をしたものである。とくに鴻池善右衛門のごときは加賀・広島・阿波・岡山・柳川の五藩の掛屋をつとめ,尾州・紀州の用達をかね,扶持米のみにて合計1万石に達し,別家にてさえ70人扶持をうけるものがいた。したがって鴻善・平五(平野屋五兵衛)・天五(天王寺屋五兵衛)など巨商・高家の日常生活は大名に類するものがあるほどであった。およそ武士と町人とのあいだに一度貸借関係が結ばれると容易に決済することを得ず,いよいよ深みに陥り,ついには貸主に対して永年賦返済・利金免除などを強談するに至るものであるが,町人のほうは利金や扶持米付届け贈物その他の収入でたいていは10年もすれば元金は返るわけであるから,かかる要求にも応じた。また一方が借金を踏み倒すと,他方は締貸の方法によってこれに対抗するに至った。すなわち用達町人仲間のものが相談して,その大名には資金を融通しないことにした。そこでその大名の役人は詮方なく旧の貸主に対して詫びを入れ,贈物などをし,古借金を返して機嫌をとって,さらに貸金を依頼するのほかはないこととなった。このように町人が武士に対して報復的手段に出たことは,すでに享保ごろから行われていた。すなわち江戸において町人に返金を怠ったり,品物の代金を滞らせたりした武士に対して,その門前へ紙旗を立てたり,張紙などして侮辱を与えることがしばしばであった。そこで幕府は享保14年12月に,今後このような無礼を働く者は容赦なく処罰することを命じている。ともかく武士も財力の上において町人に頭が上がらなかったのである。町人の資力は漸時農村へも侵入した。土地の譲渡,資金融通なども農民間で行われたわけでなく,町人の資力がそこに及んでいる。とくに土地兼併による地主,新田開発による地主などには町人出身の者が少なくなかった。町人請負新田といって町人が開墾を計画したことも多かった。
町人といっても元禄期から大坂町人と江戸町人とで性格・気分が異なってきた。江戸は幕府・諸大名の放慢な消費生活によって維持されていた膨大な消費都市であり,その代表的町人は御用商人であった。江戸町人はいわば武士階級の放慢な消費生活に直接的に寄生していたので,そのため武士の気風をうけて,金銭をうとんずる傾向があった。なかでも土木請負業者や貨幣鋳造業者(金座・銀座)は幕府の役人にとりいって,一攫千金の利をおさめ,その金を浪費して大尽気質をほこった。これに対し大坂は,間接的には同様に武士の消費生活を地盤として発展したものであったにしろ,商品経済の発展によってしだいに確立したものではあるが,商品経済を基盤としての商業都市であったから,その代表的なものは両替商であり,問屋・仲買いなどであった。彼らにとって資本がその生命であったから大坂町人では一般に金銭を重んずる傾向があった。
8代将軍吉宗の享保改革は,幕府や諸大名の財政たて直しを行うための非常手段として参勤交代制を一時ゆるめたが,商品経済を否定できず,その緊縮政策で江戸は打撃をうけ,利権のなくなった御用商人は多く倒産した。そのため従来の江戸商人気質もなくなる。しかし,大坂町人のうけた打撃は江戸に比べて小であった。相対済し令で貸主の回収不能を余儀なくされたが,大坂町人はこの経験から十分警戒的になった。田沼時代吉宗の緊縮政策は崩れ,幕府は株仲間を設けさせ独占権を与えたので若干活気を呈したが,独占価格となって武士・農民は困り,寛政改革でまた緊縮政策がとられた。そして大御所時代になり,再び放慢政策となり大御所時代の町人における繁栄となり,江戸町人文化の爛熟期となる。しかし,これも天保改革で破壊される。その後幕府は対外問題で悩み,放慢政策もとれずもはや町人の変態的な繁栄は戻らない。
停滞的な封建社会のなかで町人が活気を呈することができたが,やがて商品経済の発展につれて資本が個人を圧倒するに至る。町人社会にも封建的・身分的関係が生まれることになる。
商家の組織は丁稚制度の上に築かれていた。丁稚は15,16歳になると半元服となり,半人前となり,17,18歳には手代になり,それぞれ支配人となったり,別家・親類並にもなる。また番頭となる。町人社会でも譜代的な主従関係が生まれ,封建的な意識が生まれたが,商家の内部では武家社会と比べて人材登用の道が開かれており,これが町人社会が活気を高めていた。富商では2代,3代と続くと,家業を離れて貴族化したが,なお町人の社会では子畜制度によって育て上げられた実務に通じた別家・支配人・手代がいて,自由に経済的手腕をふるうことができた。
元禄文化・化政文化の17・18世紀の町人文化の努力,文芸・歌舞伎,そのほかの演芸も盛んにおこり,石門心学など商行為は賤しむべきでないと理論的に根拠づけている。
しかしその発展には限界があり,町人のあいだに西洋のブルジョワのように封建社会組織そのものを否定しようとはしなかった。町人は町人の本分を守るべきであると同じように,武士も武士としての本分を守るべしというのが,その武士身分に対する批判であった。町人のあいだでは封建的社会機構があるからこそ自分達の繁栄もあるし,江戸幕府の統括的政策によってこそ天下の富を一手に収め得たのであるとする,不満も反抗心もおこらず,町人間に武士に対する尊敬畏怖の念が多少薄れてきたかもしれぬが,封建組織そのものを否定する気持はおこしていない。
武士のなかには賤商意識を捨てて商業にのり出すものもでき,各藩では商業利潤の獲得を企てたり,自領内の町人を育成したこともあるが,幕府領内町人の大資本の圧迫からのがれようともした。地方町人の経済界への進出も出てくる。しかしこれも藩権力と結びつくことで進出をはかったもので,封建制否定とはならない。
幕府と町人階級のあいだの矛盾は深刻化せず,むしろ幕府と諸藩・諸藩政府とその家臣団や百姓とのあいだにおこった。明治維新で主体的勢力となったのは諸藩の下級武士で,町人からの参加はなかった。倒幕軍は軍用金を出した町人も多いが,それは強制されて提供したものである。江戸時代の町人はそのまま明治以後の実業家につながらない。