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●町村制 ちょうそんせい

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 町村制とは,地方制度としての町・村の組織・運営に関する制度である。1888年(明治21)に公布された町村制によって整備された。

【明治初期の町村制】町村は,江戸時代にすでに生活共同体として,また,行政の末端として制度化されていたが,それは自然発生的で,内容はまちまちであった。明治に入って政府は,1871年(明治4)に戸籍法による大区・小区制を実施し,それを地方行政単位とした。しかし,従来の町村を無視することができず,1878年(明治11)に制定公布された三新法の一つである郡区町村編成法により,町村は地方行政単位として復活した。1878年の三新法の残りの二法は,府県会規則と地方税規則とで,それら制定の背景には,自由民権運動と,それによる農民運動の激化のほこ先を,小範囲で日常的な行政を対象とする町村自治を与えることによってそらそうとする中央政府の意図があった。しかし,政府のこのような意図があったにもかかわらず,一応国民の要求を若干でも自治という形で採り入れたことに,この三新法は大きな意義をもっていた。

【1888年公布の町村制】明治政府は,もともと暫定的性格をもっていたとはいえ,すでに地方自治関係の三新法があったにもかかわらず,1888年(明治21)に町村制を市制とともに公布した。その理由は,対外的には欧米先進資本主義国家の信頼を得,仲間入りができるだけの中央集権的地方制度をつくりあげる必要があったことであり,対内的には自由民権運動の自治権拡充の要求に先手を打つ必要があったことである。したがって,この町村制は,中央政府のための地方制度としての性格が強く,英米系の地方自治的性格は弱かった。町村制は次のような経過を経て成立した。1884年(明治17),内務卿山県有朋は,内務省に町村法調査委員会を設置し,ドイツ人法制顧問アルバート=モッセなどの協力のもとに,市制・町村制法案を作成し,閣議・元老院の議を経て公布し,1889年(明治22)これを施行した。この間,帝国議会での論議・議決はいっさいされなかった。この町村制の原型はプロシアにならったものであるが,1889年に発布された大日本帝国憲法も同様に,専制的なプロシア憲法をまねたものであって,この制限的な立憲政治と絶対主義的色彩のきわめて強い憲法が,この中央集権的な地方制度の強力なささえとなった。町村制では,町村長は原則として名誉職であり,町村会議員は地租あるいは直接国税2円以上の納入者による2級の等級選挙制によって選出されることになっており,町村会の運営は府県・郡の強力な監督下におかれていた。町村制は以後数度の改正が行われ,1921年(大正10)には,町村会議員の選挙権は直接町村税納入者に選挙資格は緩和され,等級選挙も廃止された。1925年(大正15)には,普通選挙法が施行され,中央政府の地方に対する監督権も緩和され,町村の自治権も拡大された。しかし,この間,中央政府のための地方制度という基本的な考え方は,ゆるぎなく維持され,戦時下ではいっそう強化されていった。

地方自治法下の町村】1947年(昭和22)地方自治法が公布され,町村制は廃止され,同時に町村の自治権は地方自治の本旨(団体自治住民自治の原則)にもとづいて大幅に拡大され,民主化された。つづいて,1949年(昭和24)のシャウプ勧告によって町村の財源が確保された。府県との関係も,戦前には府県が重視され,府県が上級団体として町村を監督することが多かったが,同等の地位におかれることになった。シャウプ勧告では,むしろ市町村を基礎的地方団体として優先的に扱っている。しかし,中央政府や知事の町村に対する監督・統制は縮小されたとはいえ,教育・土木・社会そのほかの町村行政に関しては温存されており,町村の自治の制約となっている。町村はさらに,財政的にも国庫依存度が高く,委任事務も増大し,多くの問題をかかえている。