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●朝鮮独立運動 ちょうせんどくりつうんどう

アジア アジア AD1905 

【第1期】1905年(明治38)の「保護条約」から1919年の三・一独立運動まで。日本の「保護政治」によって朝鮮は事実上の植民地状態に置かれた。これに反対して広範な地域と層に抗日運動があったが,二つに大別される。その一つは反日義兵運動である。下層の農民大衆を主力として,武力によって朝鮮の独立を勝ち取る方法をとっていた。この運動の初期の指導者は,衛正斥邪派の儒者である閔宗植崔益鉉らであったが,1907年以後になると解散させられた。義兵運動は朝鮮各地の山岳地方で起こったが,1910年の「日韓併合」前後になると,運動の中心地は北朝鮮の山岳地方から中国東北部の間島地方などへ移るようになった。他の一つは愛国文化啓蒙運動である。この運動は,従来の開化・独立協会などの運動を継承・発展させたものであるが,教育・啓蒙運動を通して民主主義思想と愛国思想をひろめることをめざしていた。ただ日本軍の制圧下であったので,反日的な政治色を出さずに,文化啓蒙の形態をとらざるを得なかった。したがって,西友学会・湖南学会などの文化団体の名称をつけていた。申采浩・安昌浩らが指導者であるが,都市のインテリ・学生などが中心となっていた。「併合」後になるとこうした文化団体の名称も許されず解散させられ,軍隊による武断政治が行われた。経済的には土地調査事業などで農民の土地喪失が深刻化し,朝鮮人民の不満は充満していた。そこへ第一次世界大戦後の被圧迫民族の独立運動の高揚と,アメリカ大統領ウィルソンの民族自決宣言,ロシア革命などの影響を受けて,天道教・キリスト教・仏教の宗教家が主となり,1919年(大正8)三・一運動を起こした。この運動は朝鮮の全土に広まり,広範な層が参加した。平和的な示威運動であったが,日本軍による鎮圧政策で多くの犠牲者を出し,失敗に帰した。

【第2期】三・一運動は独立運動の転換点となった。日本もまたこの運動で大きな打撃を受けて,その後は「武断政治」から「文化政治」へと統治形態を変えざるを得なかった。第一次世界大戦中の日本の好景気によって日本の独占資本が確立し,植民地の朝鮮にも資本輸出による工業の発展に伴って,差別的な低賃金政策などによって労働問題が生じていた。ロシア革命の影響で朝鮮でも社会主義思想が広まり,労働者階級が独立運動の中心的な担い手となった。1925年朝鮮共産党が結成されると同時に,朝鮮労働総同盟・朝鮮農民総同盟なども組織され,労働争議・小作争議が激化する。1926年には六・十万歳の独立運動が起こった。1927年には共産党を中心として民族統一戦線として新幹会が結成され,1929年(昭和4)には元山ストライキ・光州学生事件が起こり,1930年前後には小作争議も激増し,反帝・反封建の大衆運動が独立運動の主要形態となった。1930年代になると15年戦争に伴うファッショ的支配下で朝鮮は兵站基地化され,反帝独立運動に対する弾圧はさらに強化される。そのために独立運動は国内で困難となり,国外で活発化する。まず中国東北部で盛んになる。間島地方は早くから朝鮮人が多数移住していたので,そこを根拠として1910年代には朝鮮独立軍,1920年には洪範図・金佐鎮部隊が活躍したが,1930年代になると中国の抗日部隊と結合して闘争した。金日成らが抗日パルチザンを組織して活動し,華北・華中では朝鮮義勇軍が組織され,中国八路軍などと連携して戦っていたし,1941年に延安では金科奉らが独立同盟を組織して抗日抵抗をしていた。上海・重慶では中国国民党と結び,金九・全奎植らが三・一運動直後から上海臨時政府を組織し,1940年には光復軍を結成していた。アメリカでは李承晩らが運動をした。また国内では,解散した共産党の再建運動を行い,朴憲永らが活動し,呂運亨もまた建国同盟を結成して解放の日に備えていた。

〔参考文献〕朴慶植『日本帝国主義の朝鮮支配 上・下』1973,青木書店

姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』1983,大阪書籍

姜徳相『朝鮮独立運動の群像』1984,青木書店