●朝鮮通信使 ちょうせんつうしんし
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江戸時代に李朝朝鮮が日本の徳川幕府へ派遣した修好外交文化交流使節,当初は豊臣秀吉の朝鮮出兵(壬辰・丁酉の役)の捕虜の刷還を目的として派遣されたもの。1607年(慶長12)には修好回答兼刷還,1617年(元和3)は大坂平定回答兼刷還を目的とし,第3回目の1624年(寛永元)家光装職のときから目的が変わっている。朝鮮通信使は「交隣」を目的とする対日使節であって通信の信は任を通わすの意で「誠信」を通ずるの意味である。【朝鮮通信使の目的】豊臣秀吉は朝鮮の人々からは〈万世不志之讐〉とされ〈此賊乃吾邦百年之讐〉といわれている。家康はその秀吉を倒した人物として評価をうけ,その人が善隣外交政策をとって修好使節として迎え,その結果,慶長条約・朝鮮使節団の往還・俘虜送還・柳川一件を問題とした。そして1609年(慶長14)慶長条約といわれる新通商条約(己酉条約)を締結し,倭館を釜山のみととりきめた。なお対馬と朝鮮の間の嘉吉の約条は存続した。壬辰・丁酉の倭乱の捕虜は数多かったが,送還したものも少なくない。日本はつねに修好,和親を目的としていたが,李朝朝鮮は信任を前提に,日本の国情探索と俘虜送還を目的としていたが,それも時を経過して両国間の文化交流へと移行する。
【朝鮮通信使と文化交流】李朝朝鮮の思想家李退溪学の評価は,文化交流によって日本でも高くなり,林羅山,貝原益軒,三宅観瀾,山崎闇斎らがその尊崇者となり,佐藤直方,浅見網斎,村上玉水,古賀精里,稲葉迂斎,楠本端山,同碩水,大塚退野を生む。また日本の文人たちは通信使をたずね,いろいろと詩歌の指導添削をうける。また通信使の往来は教義付にも影響を与え「漢人韓文手菅如」「世話仕立唐繍針」「拳褌廓大通」となってあらわれている。その反面,朝鮮通信使は日本の風俗を観察して,自国と対比し,日本人は肌をあらわし褌をしていること,温突がないこと,世伝の奴婢がないが買取りの如婢が多いこと,淫風大熾で男女混浴とか従父兄弟の婚娶,兄嫁を弟の妻とすることへの批判をつよめ,奢侈の風と幕府の虚飾への批判を生じている。
【朝鮮通信使の軌跡】朝鮮通信使の正式の名称のものは前後9回それに慶長,元和,寛永元を加えて12回と考えることができる。4回目からは「将軍襲祝賀」「御代替祝儀の信使」となる。日本の方からも宗氏が中心となって大慶参判使をつかわし修聘参判使,通信使の派遣を求めている。朝鮮国書には将軍は「日本国王」となっているが,寛永13年より「日本国大君」に改め,将軍の国書には「日本国源某」と称している。通信使の一行のコースは迎聘参判使が釜山東莢の倭館で迎接し,通信使一行は6隻の渡航船に乗って釜山永嘉台下を出発,対馬北部の佐須奈浦もしくは鰐浦にわたり,壱岐・北九州・瀬戸内を経て大阪の川口の伝法前洋につき,河舟で淀浦まで来て上陸し,東海道を通行する,泊所が概ねきめられている。江戸に来たのちは館所に到着の日,饗応をうけ,翌日上使が通信使慰問,数日後行列をととのえて登城,将軍に謁見して,国書をすすめる。その間の歓迎に要する諸国大名の出費は多く,国役負担する農民の重圧も大きい。この送迎に要する金品労役は大変なため,しだいに批判が強かった。朝鮮の方でもかなり物入りの負担であった。しかし国民各層の影響は「朝鮮人来聘記」「朝鮮人大行列記」などによってその効果をました。
【通信使の終焉と意義】中井竹山は「草茅危言」(寛政1)で経済的負担をあげ,詩文の贈答や筆談は文化コンプレックスを示す。その上朝鮮の事情も考えて批判的見解を進言した。これを契機に文化には対馬で応接する方向が見出され,費用の節減に資した。その後これを行う予定であったが,国際的状況もあって中絶,延期を繰り返している。その反面19世紀にいたり三韓征伐の再評価が増大する。
〔参考文献〕芳賀登 朝鮮通信使と文化交流 日韓両国における精神文化の交流 1984,筑波大学プロジェクト報告