●朝鮮戦争 ちょうせんせんそう
AD1950
大韓民国と北朝鮮の武力衝突を機に起こった1950〜1953年の国際紛争。【開戦の原因】南北それぞれ相手側の侵略で始まったと主張し対立している。韓国から誘いのわなと挑発があり,北朝鮮がそれにのって開戦したというストーンに代表される説(I. F. ストーン『秘史朝鮮戦争』1967,青木書店。信夫清三郎「現代史の画期としての朝鮮戦争」世界,1965〜1968など)が広く流布されているが,どの見解も状況証拠によるのみで決定的な証拠を欠いており真相は不明である。
【開戦の背景】開戦前,北側から盛んな統一の呼びかけがあった。1949年6月南側の代表も参加して祖国統一民主主義戦線が結成され,1950年6月には韓国政府に向けて統一政府をつくるための南北統一協商会議開催のアピールがなされ,代表も派遣されたが,韓国政府は国連監視下で南北合同の選挙を行うことが先決としてこれを拒否したので,北朝鮮の平和統一の試みは失敗した。一方韓国の政情は不安定で労働党の指導するゲリラ闘争が済州島・麗水などで行われ,これに対処して李承晩政権は治安維持法なみの国家保安法を布いて弾圧したが,工業生産は低落し,インフレは昂進して国民の不信をかい,1950年5月の総選挙では李承晩は惨敗した。しかも治安上頼みとするアメリカ軍は前年6月に本国に撤退した。李承晩は孤立の危機を救うため,国民の目を国内から国外にそらそうとし,5〜6月危機説を宣伝していた。
【開戦】6月25日未明,38度線全線で南北両軍の戦闘が発生し,北朝鮮軍は破竹の勢いで南下し,たちまちソウルは陥落し,韓国軍の主力は崩壊した。アメリカは直ちに国連に提訴し,中華人民共和国加盟問題でソ連欠席中の安保理事会において北朝鮮を侵略者と断定させ,国連軍による軍事制裁を決定し,17カ国が派兵したが大部分は米軍であった。
【戦局のあらまし】(1)1950年6月25日〜9月15日 在日アメリカ軍が投入されたが,兵力不足で苦戦し,北朝鮮軍に9割以上占領され,全長約200kmの洛東江の防衛線内に追い込まれた。
(2)1950年9月16日〜10月24日 アメリカ軍の増援部隊の到着によって戦局は一変した。9月15日夕国連軍2個師団が突然260隻の艦船をもって仁川に上陸を決行,敵の背後をついて北朝鮮軍を壊滅させ,これと呼応して洛東江周辺の国連軍もいっせいに総反撃を開始した。ソウルは9月26日陥落し,2週間で南朝鮮全域を奪回した。10月1日には38度線を突破して,北朝鮮に侵入し,20日にピョンヤンを占領し,10月26日には先頭部隊は鴨緑江岸に達した。
(3)1950年10月25日〜1951年6月22日 かねて抗米援朝の大衆運動を繰り広げていた中華人民共和国はアメリカの中国侵略の危機が迫ったと判定し,10月25日多数の中国人民義勇軍を北朝鮮に派兵した。国連軍側は大軍を投じてクリスマス攻勢を開始したが,クリスマスまで38度以南に撃退され,中国・北朝鮮軍側は1951年1月4日ソウルを再度奪回した。この間国連軍最高司令官マッカーサーは満州爆撃・中国海上封鎖の強硬策を主張して,不拡大政策をとるトルーマン大統領と対立し罷免された。
(4)1951年6月23日〜1953年7月27日 中国・北朝鮮軍は37度線まで達したが,新しく就任したリッジウェイ国連軍総司令官のキラー作戦により,国連軍は再度ソウルを奪回し,6月には戦線はほぼ38度のすこし北方で,両軍の戦力伯仲し,膠着状態に入った。ここで双方のあいだに休戦の気運が動き,6月23日のソ連国連代表マリクの提案をきっかけに休戦会談が始まったが,会談中も戦局は引きつづき進行した。
【休戦会談】7月10日から開城で,10月25日からは板門店に会場を移して行われ,捕虜の交換問題で難航した末,ようやく1953年7月27日5章63項から成る朝鮮休戦協定が成立した。
【結果】人的損害だけでも国連軍全体で109万人,北朝鮮・中国軍150万人の死傷者を出し,境界線は従来のままとされ,朝鮮の南北分断が確定した。日本は特需で潤ったが,再軍備が始まり,反共軍事体制に編入された。
〔参考文献〕P. W. コンデ『朝鮮戦争の歴史』1968,太平出版社