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●長州藩 ちょうしゅうはん

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 長門・周防に置かれた藩。毛利氏。外様大名。当初長門国萩を城下としたが幕末に周防国山口に移る。ふつう萩藩ともいうが明治政府の呼称は山口藩。石高は36万9,411石。藩内に長府・徳山・清末(いずれも毛利氏)と岩国(吉川氏)の4支藩がある。

【成立】安芸の毛利氏が大内氏に代わって中国地方を制圧,一時は10カ国を支配したが豊臣秀吉のとき8カ国112万石の大名として君臨,1600年(慶長5)の関ケ原の戦いで当主輝元は西軍にくみし敗れ,周防・長門2カ国に削られ,広島より萩に移った。同年の検地では29万8,480石,物成21万7,000石で当初は膨大な家臣団を抱え財政的に苦しんだが,1610年の検地によって総石高52万5,400石,物成38万3,500石余となり,総石高の7割にあたる36万9,411石を公称石高とすることで幕府の了解を得た。1600年毛利秀元を長府3万6,200石,吉川広家を岩国3万石に分封,1617年(元和3)毛利就隆を徳山に分封,1624年(寛永1)再検地に着手,両国合計65万8,300石,うち長府支藩8万3,000石・徳山支藩4万石・岩国支藩6万石とした。のち1653年(承応2)長府藩より毛利綱元が清末(1万石)に分封され,あわせて4支藩となった。ただし徳山支藩は1716年(享保元)改易され1719年再興,1717年から1729年まで清末藩が中絶した。

【制度】4支藩のほか1万石前後の給領地を与えられた一門8家が永代家老となり,家臣は寄組・大組・御船手組に分けられたが,大部分の家臣は大組に属し,その下に足軽・中間などの階級があった。永代家老のほか1代家老があり,加判役の寄合(主座が当職)が藩政を掌握,また参勤交替のさいも藩主に随行する当役が強い権限をもった。1660年(万治3)当家制法条令33カ条を定め藩制の基本とした。これを万治制法という。

【民政】1650年(慶安3)本藩領を18宰判に分かち,これを行政区画とした。宰判(裁判)ごとに代官が派遣され,大庄屋が庄屋・給庄屋(給領地)を率いて民政に参加した。庄屋のもとに他藩の組頭にあたる畔頭(くろがしら)が置かれたが岩国支藩では刀禰(とね)と称した。度々の検地による石高打ち出しと7公3民の物成によって農民の生活は苦しく,とくに周防の山間部においては紙専売が施行されたため逃散するものが相次いだ。藩は当初の財政窮迫を脱却できず,藩士の給禄削減(馳走米という)も行っているが,とくに田畑の開作に力を入れた。1763年には撫育方を設けて塩田開発や港湾整備などに努めた。撫育方は独立会計となり,室積(むろずみ)会所で米の入札売を行ったり,下関に越荷方を設けて廻船を取り扱い,また櫨蝋の製造など活発な産業政策を行った。

【幕末】1831年(天保2)数年来の風水害による凶作が原因となって全藩一揆が勃発,田租四つ成・雑税の一部免除・物産の自由販売を求めた。8万貫の大負債を抱えた藩は一揆を鎮圧したものの財政改革の必要に迫られ,1837年村田清風を登用して1840年より大々的な改革に着手した。経費節減・藩債の延期・士卒の給禄の半減など厳しい計画をもって天保改革が施行されたが,そのなかで富国強兵策が示され,徐々に財政力と軍事力を回復,幕末には100万石以上の内高となったといわれる。1853年(嘉永6)のペリー来航を契機に藩論沸騰し,吉田松陰とその門下生を中心に尊王攘夷運動を展開,二度にわたる長州征討を受けながら庶民層の動員・軍事力の近代化に支えられて武力討幕に大きな役割を果たし明治維新の支柱となった。

【廃藩】1869年(明治2)版籍奉還を首唱,以後藩政改革を進めて家臣団の給禄削減・帰農商につとめ,1871年6月まず徳山支藩が廃藩,7月の廃藩置県で山口・岩国・長府・清末の4県となったが11月に山口県に統合。明治政府では長州藩出身者が政治家・軍人として活躍,薩摩藩出身者とともに薩長藩閥政府として攻撃の対象になった。

【史料】『毛利十一代史』『萩藩閥閲録』『防長風土注進案』『防長回天史』など多数の編纂物があり,約10万点の毛利家文庫が山口県文書館に所蔵されている。