●鳥獣戯画 ちょうじゅうぎが
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正しくは『鳥獣人物戯画巻』という。全4巻の絵巻で国宝に指定されているが、4巻とも同時代の作ではなく、第1・第2の両巻は12世紀、すなわち平安時代後期の作とされ、あとの2巻は13世紀、鎌倉時代の作といわれている。筆者は古来鳥羽僧正と称せられているが、確証はない。しかし第1・第2の両巻の表現形式は僧正の在世時代を余りへだたぬころといわれる。ことにその画風には鎌倉時代に各種の題材にことよせて諷刺的に描く戯れの絵といわれた「嗚呼絵」すなわち後世に戯絵(ざれえ)といわれた絵の画風に似ており、事実鳥羽僧正は嗚呼絵も描いているところから鳥羽絵なる名称が生まれ、古来諷刺画の祖とされている。以上のことから鳥羽僧正筆の伝称が生まれるのは無理からぬことであるが、何よりもこの絵巻のすばらしさは、広義の大和絵が生んだ最も表現力ある線の巧みさにある。しかし以上の伝称にもう一つの背景がある。それはこの絵巻が京都・高山寺に所蔵されており、当寺は平安時代一時廃絶したのを1206年(建永1)後鳥羽上皇の院宣によって明恵上人が再興、寺号を高山寺と改め、密教化した東大寺に代わるべく華厳宗の根本学堂とし、鎌倉時代屈指の名刹で、応仁の乱で諸堂焼失したとはいえ、多くの典籍(高山寺という)を所蔵し、仏師や絵仏師・工人を多数かかえ、工房も構えていたといわれ、この『鳥獣戯画巻』をはじめ多くの絵画や彫刻・工芸の名品を所蔵していた、今に法灯の続く名刹である。
この絵巻の形式的な特徴をあげれば、ほかのほとんどの絵巻が紙本着色であるのに対して、これは全巻紙本白描であること。そしてさらに詞書をまったく用意しなかったとみえて、全巻絵を連続的に描いていることなどである。大きさをみると4巻とも紙の縦は約30cmとほぼ揃っているが、横すなわち長さは第1巻(甲巻ともいう)は約1,148cm・第2巻(乙巻)は約1,189cm・第3巻(丙巻)は約1,130cm・第4巻(丁巻)のみ短く約933cmである。
さてその描くところの場面・内容をみると、第1巻(甲巻)では猿・鬼・蛙・狐・雑子・猫など合計103匹が登場して、いずれも擬人化され、溪流に沐浴したり、賭弓をしたり、袈裟を着た猿、鹿を引く兎、逃げるもの、追跡するもの、倒れた蛙をほかの動物が囲んで眺めたり、蛙の田楽踊り、兎と蛙の相撲、蛙に投げ飛ばされる兎、蛙を壇上に祭り、猿・兎・狐が袈裟を着て読経し、まわりに動物の会葬者が見守り、最後に猿が兎・蛙からおきよめを戴く場面で終わっており、いわゆる「鳥獣戯画(巻)」と呼ばれる最もポピュラーな巻である。第2巻(乙巻)はほかの巻のように戯画ではなく、動物生態図で説話の筋はない。すなわち野馬に始まり、牛・鷹・犬・鶏・鷲・水犀・麒麟・豹・山羊・虎・獅子・竜・象・獏など空想的なものも含めて総計69匹の鳥獣を描いている。一名「鳥獣写生巻」ともいわれている。第3巻(丙巻)は人間が登場して、前半は囲碁・双六・将棋・耳引き・首引き・睨み合い・褌引き・闘鶏・闘犬の9場面を描き、いずれも賭けごとのようである。後半は第1巻とテーマがやや似ていて、猿・兎・狐などが人まねをして遊ぶところを描いている。一名「人物鳥獣戯画巻」とも呼ばれる。最後の第4巻はテーマとしては第3巻の前半部にやや近いもので、人間社会のことを描いている。すなわち法力競べ・流鏑馬(やぶさめ)・法要・球投げなど僧侶・俗人達の勝負事や行事のさまである。一名「人物戯画巻」ともいう。
以上通観してわかるとおり、各巻内容はまちまちで一貫せず、それらの主題の意味が何であるのか、その解釈をめぐって容易に断じがたく、種々の議論が行われているが、第1巻と第3巻後半などは明らかに平安末期の社会批判の諷刺画、ことに当時の仏教界に対する諷刺であろう。また全巻に賭博がみられることは俗界への諷刺であろう。とすれば、この作者の意図は先述の高山寺の地理も考え合わせると、下界の京の卑俗から超脱して神仙世界への憧れを暗示したものである。
