●張之洞 ちょうしどう
アジア 中華人民共和国 AD1837 清
1837〜1909 字は孝達。号は香濤。文嚢と諡される。河北省南皮県の人。1863年(同治2)1甲第3名で進士に合格。以後10余年間中央・地方の学官を歴任。当時モラルの腐敗や軟弱外交を糾弾した「清流」の一員であり,ロシアとイリ条約を締結した崇厚を1880年(光緒6)に弾劾し,名声を博した。その後は西太后に認められて順調に昇進し,山西巡撫(1882〜1884,光緒8〜10)・両広総督(1884年8月〜1889,光緒10〜15)・湖広総督(1889〜1894,光緒15〜20,1896〜1902,光緒22〜28),(1904〜1907,光緒30〜33)・両江総督(1894〜1896,光緒20〜22,1902〜1904,光緒28〜30)などを歴任した。清仏戦争では強硬な主戦論を主張,敗戦後に中国の富強化に目をむけ,両広総督在任中から財政整理・吏治粛清・産業振興・軍備の近代化につとめた。以上のように当時にあっては進歩的な政策を行う反面,思想的には康有為らの変法論に対抗して1898年に『勧学篇』を著し,伝統的な儒教思想の護持を主張,また対外政策面でも,義和団事件のさいには上海外交団と妥協し,局外中立を保った。