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●彫刻(日本) ちょうこく

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 日本の彫刻史では,7世紀以前を一応先史時代とする。この時期ではいまだ十分な彫刻芸術は開花せず,わずかに,土偶埴輪を指摘するにとどまるが,それでも土偶は,一般には小品ながらも縄文式時代に生きたわが国原始人の,その咒術的な神秘的精神を背景に,現代人も目を見張るような優れた抽象表現能力をのぞかせ,古墳時代の埴輪は,当時の土師器(はじき)生産者の手になることから,全般に単純な円筒型フォルムを基本とはするものの,多くの風俗人物・家畜鳥獣・家屋器財など多種類の造形を大々的に行い,上代人のもつ素朴さと明朗さを,それにあまねく表出した。けれども,これら土偶埴輪は,様式・技法ともにいまだ原始性を払拭することはできなかった。ところが6世紀中ごろに,わが国に仏教が公伝したことは,それはまた,仏教の背景にいる高度な大陸文化を摂取することでもあったから,わが国の彫刻は,仏像彫刻を主流として,ここに真の芸術的洗練を獲得した。まず飛鳥時代(7世紀初期から7世紀中期)では,中国6世紀代の北魏後期・東魏の彫刻様式が朝鮮半島の三国時代(高句麗・百済・新羅)を経由してわが国にもたらされ,古拙的微笑の尊顔に硬直的で扁平な姿態をもった抽象的な様式が仏像を支配した。そのなかでも飛鳥時代を最も特色づける一連の様式は,鞍部首止利仏師(くらつくりのおびととりぶっし)のつくった法隆寺金堂釈迦三尊像が代表するゆえに,一般に止利派と呼ばれる。ただ,このほかに同寺百済観音立像のように南梁系の流れもあり,系譜は複雑である。また彫刻素材の面からみれば金銅仏が主流で,これに樟(くすのき)材の木彫仏が加わる。

 奈良時代前期(7世紀後半)はだいたい天武朝から平城遷都までの期間とするのが通説と思われるが,このころには新たに北斉・北周・隋の様式が百済・新羅を通して流入し,大化改新以降は遣唐使も往来する折から,時代の後半期には初唐の様式も定着するようになり,飛鳥時代の硬直・扁平なフォルムは,見るまに円やかな立体性を加えつつ,しかも童児を見るような清新さを発揮する独自の様式が生まれた。この様式をとくに白鳳様式,その時代を白鳳時代と呼ぶ説がある。この時代の仏像はおおよそ金銅仏が多く,その最も巨大な一例は,興福寺(旧山田寺講堂)仏頭で,天武朝末年の作である。また数十センチ内外の小金銅仏は全国にひろがるようになり,島根・鰐渕寺観音菩薩立像は692年(持統6),大分・長谷寺観音菩薩立像は702年(大宝2),いずれも地方族の発願になる。

 奈良時代後期(8世紀代全般)は別に天平時代とも呼ばれる。この時代は唐7世紀後半の盛唐様式がわが国の8世紀代の指導様式に定着した時代である。すなわち仏像は,肉身部が完全に立体性を確保したばかりか,各部のフォルムが客観的に把握され,真実性において的確に表現されるに至った。しかもそれは,ただいたずらな写実性の追求に陥ることなく,尊顔・姿態は完全な調和性と統一性を保ち,人間的な表情のうちに仏の偉大性・崇高性,あるいは慈悲性を,いずれもみごとに生気づけて表すことに成功した。折から奈良朝時代の仏教は,国家公認の鎮護国家仏教であったから,平城京には七堂伽藍を誇る官大寺が並び立ち,地方国衙にも国分寺が建立され,わが国律令国家体制の中央集権的統一性とその理想性をうたいあげるべき古典的(クラシック)芸術美は,これらの堂塔に林立する巨大な仏像群に遺憾なく追求されるところとなった。また仏像の彫刻技法も多種多様に開拓され,従前の銅造をはじめ,新たに乾漆と塑造が加わり,時代の後半には木心乾漆,続いて純粋の一木彫仏までも出現した。まず銅造は一般に丈六ないしそれ以上の巨像が多く,薬師寺金堂薬師三尊像も典型的な丈六像であるが,飛鳥の本薬師寺から移転させた7世紀代か,平城薬師寺で新造した8世紀冒頭期の作かで意見が分かれる。しかしこの巨大仏鋳造の経験は,やがて東大寺大仏を成功させる糸口となった。布と漆の張子である乾漆仏で,734年(天平6)仏師将軍万福のつくった興福寺十大弟子像八部衆立像は,いずれも西金堂の旧仏。続いて東大寺三月堂諸仏は本尊不空羂索観音・梵天・帝釈天・金剛力士・四天王がすべて創建当初のままに遺り,おおよそ747年(天平19)から749年(天平勝宝1)ごろのあいだと思われる。759年(天平宝字3)創建の唐招提寺では,金堂本尊の盧舎那仏はふつうの乾漆であるが,千手観音と薬師如来は本心乾漆でも最大級の巨像で,そのほか同寺には多くの木心乾漆仏が伝わる。塑造の名作には,東大寺三月堂に執金剛神立像や日光・月光菩薩像があり,また同寺戒壇院四天王立像・新薬師寺十二神将立像なども代表作であり,これら乾漆像や塑像において,ことに天平写実の極致が鑑賞される。なおまた当時の官大寺の造営に際して,律令政府はとくに造寺司を設け,仏像もまた配下の造仏所に仏工を集め,きわめて組織だった制作体制を完備させたことも特筆されよう。その代表的な官司が造東大寺司である。

 平安時代前期(9,10世紀)は,別に貞観時代(古くは弘仁時代)と称されることもあるほどに,これまた独自の彫刻様式を展開した。すなわち,この時期にわが国の彫刻技法はほぼ木彫一本に単一化されるとともに,そのなかでもとくに一木造の最盛期を迎えた。そして唐代8世紀以後の新様式を軸に,森厳な神秘的超越精神を,重厚・肥満の肉身と,鎬の立った飜波式衣文禄(ほんぱしきえもんせん)や旋転(せんてん)をもって表現した。折から奈良朝仏教の顕教に代わる,平安仏教の密教が全国にひろがって,平地の七堂伽藍よりも山岳仏教寺院が発展し,そこには,従来の仏・菩薩のほか,密教特有の明王・天部の諸仏が加わって,尊像種別もまた最も豊かとなった。そのなかにあって,延暦年間に神護寺本尊薬師如来立像・新薬師寺本尊薬師如来坐像などの一木造系の仏像がまず完成し,続いて教王護国守講堂諸仏・観心寺如意輪観音坐像・神護寺五大虚空蔵坐像・安祥寺五智如来坐像など,正純密教系の彫刻が承和年間に現れ,そのほかに檀像彫刻の流れもあるなど,その様式系譜もまた複雑化した。次に奈良時代の造寺司造仏所制が解体すると,従来の俗人工匠の仏工から,寺院のなかに育った僧侶系仏師の手に造仏がゆだねられていった。またそうした一木彫系僧侶仏師が地方辺境の在地にも活動を始め,岩手黒石寺薬師如来坐像は862年(貞観4)の造像で,地方仏師の典型的作例である。

 平安時代後期(11,12世紀)は,別に藤原時代といい,摂関政治の完成した京都に,最も代表的な貴族文化が栄えた時期で,仏像彫刻もまた,彼ら京貴族の趣味にかなう,温和優美な様式に統一された。また仏教の内部においても,天台・真言密教はますますひろがりをみせる一方で,新たに欣求浄土の信仰がひろがり,慈悲救済の仏たる阿弥陀如来の造仏が流行をきわめた。この藤原貴族の美意識と信仰イメージをみごとに結びつけて,この時代の優美な仏の典型を確立してみせたのが,藤原頼通に重用され,1053年(天喜1)平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)本尊をつくった,大仏師定朝であった。なお,この定朝の父康尚以来,京中に私営工房の仏所を構える造仏の棟梁たる,大仏師の名とその系譜が歴史的にたどれるようになった。すなわち定朝の後継者は覚助・頼助以降南都の興福寺に寄って奈良仏師となり,定朝の弟子長勢は京仏師円派の,また覚助の弟子院助は同院派の祖となった。それとともに,新しい造像法として,従来の一木造の代わりに,割矧造(わりはぎづくり)や寄木造が完成し,わが国の造像技法の発展はここに極致を迎えた。

 こうした大仏師制・仏所制にのって仏像彫刻がさらに飛躍するのが,次の鎌倉時代(13,14世紀)である。この時代は,1182年(治承4)平重衡の南都焼打によって炎上した東大寺や興福寺の再興にあたって,奈良仏師のいわゆる慶派を中核に,京都の院派円派の諸仏師も加わって,その厖大な造仏事業を通じ,奈良・平安の伝統に宋風も加味した,写実様式の新風を開いたことに始まる。ことに慶派の棟梁たる大仏師運慶は,いち早く源頼朝と鎌倉幕府勢力に接近し,神奈川の常楽寺・静岡の願成就院・愛知の滝山寺らの諸仏を造立しているほか,1203年(建仁3)東大寺南大門仁王立像・1208年(承元2)興福寺北円堂弥勒仏坐像,同無著・世親各立像に,勇健な真の鎌倉様式を確立させ,大仏師快慶は,1197年(建久8)兵庫の浄土寺浄土堂阿弥陀三尊像や,奈良の文殊院文殊五尊像などの大作のほか,一連の阿弥陀如来立像を通じて,安阿弥様と呼ばれる,知的感覚に優れた阿弥陀立像の基範を生み出した。さて奈良仏師の運慶一派は,これ以降京都に復帰して七条仏所をおこし,さらに七条中仏所や同西仏所が分派したほか,院派七条大宮仏所や六条万里小路仏所,円派三条仏所によって活躍した。また鎌倉中期には大和に善派が起こり,一方幕府の膝元たる関東の鎌倉にも,慶派院派の流れをくみつつ,禅宗系の宋風を加えた独自の造仏活動が見られ,神奈川・高徳院銅造阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏)を最大級として,極楽寺・浄光明寺・覚園寺などに,禅宗風の特色ある諸仏が遺っている。また1251年(建長3)仏師幸有作の円応寺冥界諸王群像や,鶴岡八幡宮と江ノ島弁天宮の裸弁財天も異色の作である。

 鎌倉時代は,わが国の仏像彫刻にとって,様式的にも仏師組織の点から見ても一つの頂点に立ち至ったため,室町時代以降の仏像は,もはや新様式の創造性を失ってしだいに衰退の兆候を示しはじめ,また,仏所の細分化はやがて,より民間の,いわゆる仏師屋による商品的生産に陥っていった。ただ室町時代では禅宗系の肖像彫刻にいまだみるべきものがあるほか,新たに能面の面打師が登場した。また江戸時代には,円空木喰のような一種の行者仏師が,異色の信仰境地を仏像に表したこともあったが,全体としては,仏像の芸術性すでに枯渇したと言わなくてはならない。

 しかし,明治になってわが国に西洋彫刻が導入されて以来,日本美術史の上に彫刻は,再び近・現代化の道を開いた。すなわち1876年(明治9)にイタリアの彫刻家ラグーザが,工部大学美術学校の彫刻科教授に招かれて,石膏・塑造・大理石の彫像や,洋風建築の装飾彫刻の技法をわが国に伝授した。またフェノロサや岡倉天心は1889年に東京美術学校を開設し,近代彫刻家の育成につとめた。明治初期に活躍したのは高村光雲竹内久一・石川光明・大熊氏広・長沼守敬らであるが,明治30年代以降高村光太郎荻原守衛など,ロダンの影響を受けたオーソドックスな様式が成長した。1907年に文展も創設され,朝倉文夫北村西望・石井鶴三・中原悌二郎・平櫛田中などが活躍を始めた。大正以降は団体活動もすこぶる活発となり,ことに第二次世界大戦以降は現代西欧の潮流を次々と吸収して,そうした外来様式と日本の感性とを結びつけ,わが国としての現代彫刻を模索する作家たちの格闘は,今なお日夜続けられている。