●彫刻(東洋) ちょうこく
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東洋ということばは,一般にはアジアと同義に用いられる。それはメソポタミア・インダス川流域・黄河流域という世界最古の文明誕生の地を中心に,西アジア・南アジア・東アジアという3地域が考えられるが,彫刻というジャンルからみれば,むしろインドおよび中国を軸とする仏教文化圏と解するほうが理解しやすい。仏教は単なる宗教的活動というだけでなく,その通過した土地にあっては精神的な影響ばかりか,仏教に伴う物質的文化も根づいて,それは現代の文化にも大きな足跡を止めている。【インド】仏教がインド北部・ヒマラヤ山麓に勢力を置いたシャークヤ族の国の王子として生まれた釈迦牟尼(前6世紀前半に生まれ,前5世紀前半に亡くなったと考えられる),正しくはガウタマ=シッダールタという聖者によって創められたことは周知の事実である。この仏教信仰の中心となるべき偶像,つまり仏像は仏教開創の当時からつくられたわけではなく,仏像の誕生は仏滅後500年ほどのちになる。仏像がつくられる以前に信仰の中心となったのは釈迦の言行録,つまり経典であり,釈迦の遺物,とくに舎利(釈迦の遺骨)が礼拝の対象とされ,舎利の安置場所として,土饅頭型をしたストゥーパ(塔)がつくられた。その代表的なものがバールハット(前2世紀)・ボードガヤ(前1世紀)・サンチー(同)などである。
こうしたストゥーパには聖域であることを示すための玉垣が巡らされ,四方に塔門が設けられる。これらの施設はもちろん石製であり,表面には釈迦の伝記を浮き彫りで表している。伝記といっても釈迦が,釈迦としての80歳の生涯(これを仏伝という)ばかりでなく,インド古代の輪廻思想にもとづいた釈迦が前生に象であったり,猿であり,国王であったりしたときの伝記(これを本生〈ジャータカ〉という)をも,まさに空間恐怖さながらに,すき間もなく彫りつけてある。本生の場合,釈迦の姿は動物でも,人間であっても,なんの抵抗もなく表現しているが,仏伝となると釈迦の姿はまったく見られない。インドでは聖なるものを具象するのをタブーとする習慣があるためで,釈迦を表すべき場でも聖なるシンボル・菩提樹・法輪・仏足跡(釈迦の足あと)で代用させている。古代インド人に造形の能力がなかったわけではなく,前3000年ごろ,インダス文化の中心であるハラッパ遺跡出土の石灰岩製のトルソーやモヘンジョ=ダロ出土の銅製踊り子像などに見られる量感表現や肉体の的確なとらえ方などは,その天分の豊かさをよく示しているほどである。
こうした偶像をタブー視する習慣を破って,仏像が初めてつくられたのは1世紀前後のことという。その発祥の地は西北インド(現パキスタン)のガンダーラ(ペシャワール地方)と中インドのマトゥラだと考えられている。この地はアレクサンドロス大王の遠征の結果,前4世紀から後1世紀にかけて,バクトリアから移ったギリシア系の王たちの支配を受け,ここにギリシア系文物と仏教文化とが融合するに至ったためで,インド的なタブーにとらわれることなく,ギリシア人がその神々をつくるのと同じような意識で仏像をつくり出し得たし,そのころ起こってきた大乗仏教の思想が仏像創始に力を貸したことも事実であった。こうした仏像の姿形は,まさにギリシア風であったが,額の白毫相・頭上の肉髪相といった仏像の三十二相という,釈迦が生まれながらに具えていたという吉祥の相などが,かなり早くから表現されている点は興味深い。ガンダーラ彫刻はギリシア彫刻の重厚な,写実的傾向をよく示してはいるが,肉体の張りが感じられないのは,その末期的要素の影響下にあるからであり,彫刻的には高い評価は与え得ない。しかしその様式が仏教の伝播に伴って東洋各地に伝えられたことは特筆さるべきで,ガンダーラがインドでもアフガニスタンや中央アジアに近いため,インド中央部に起こったマトゥラ様式より早く,シルクロードを経て,中央アジアや中国へ伝えられたのである。これに対してマトゥラ地方でも,ガンダーラとほとんど時を同じくして仏像がつくられている。マトゥラ彫刻の特色はインダス文化以来の伝統を受けた健康な肉体美と明るい表情をもった造型である。インド中央の仏教美術はグプタ朝(320〜6世紀末)において最盛期を迎えるが,それは同時にヒンドゥー教彫刻の興隆期でもあった。グプタ彫刻は洗練というべきか,中庸を得た肉体とごく薄い着衣をもつ。グプタ末期からパーラ期(765〜1199)にかけて仏教彫刻はしだいに生気を失い,仏教自体も消滅してしまう。これに代わるヒンドゥー彫刻は柔軟な体躯と豊かな装飾性に特色が見られるが,11世紀に始るイスラームの侵入によって終止符が打たれる。
【中国】インドからパミール高原,タクラマカン砂漠を越えて仏教が中国の地へ入ったのは紀元前後ごろといわれるが,その後を追うように仏像も中国でつくられだす。2世紀中ごろ,後漢の桓帝が仏像と老子像を並祀したといい,仏教の隆盛に伴って,仏像の製作も盛んになったと思われる。遺品の上からは2世紀から4世紀にかけての仏獣鏡の背面の文様に小仏像があるのを見るにすぎず,独立した仏像としては4世紀ごろの作が2,3体あり,すべてガンダーラ風を濃厚に止めた小金銅仏である。中国では殷周以来金銅の鋳造技術が発達しているので,かなり多くの金銅仏がつくられたものと思われる。念持仏的な小金銅仏に対し,記念的意味をもつ石窟寺院の開鑿は4世紀後半,353年に初めて中国の西境敦煌に千仏洞がつくられ,460年には山西省の北端,当時の北魏の都大同に近い雲崗にも開かれる。そのほか5〜6世紀に天梯山・文殊山・炳霊寺・麦積山などが陝西・甘粛地方に開かれたのは仏像の東漸経路をそのままに物語っているようである。独立した石製の仏像もかなり見られ,これらは石窟寺院と異なって,都市のなかの寺,平地の寺といった木造の寺院か,個人の住宅などに安置されたものと考えられる。表現の上からは北魏時代の初期,5世紀半ばごろにはインド的な量感と張りのある力強い体躯をもったものだったが,493年(太和17)北魏の都が洛陽に移ると,石窟の造営も龍門に変わり,様式的にもたくましさと量感を失った瘠せぎみの体躯の上に装飾性の強い衣文をもった衣をつけるようになる。これは553年に北魏が二分した東西の魏にも引き続き見られるが,6世紀の半ばに北斉・北周が起こると,彫刻的には再び量感をとり戻し,全体に丸味のあるなだらかな曲線で構成され,顔立ちも明るく,温和な感じの像が多くなる。石窟でいえば山西省響堂山・天龍山などにその例を見る。これらの像のうちには童子形とでも呼べる丸い顔・可憐な表情の一群が見られるが,これらは日本の白鳳彫刻に大きな影響を与えたものと思われ,これに対して飛鳥の仏像は龍門様式が中核となっている。
6世紀末に隋が六朝の諸国を滅ぼし天下の統一を達成するが,仏教はさらに盛んになる。隋代の彫刻は立体感を強く打ち出すようになり,菩薩像の荘厳はより華やかになってくる。圧倒するような量感はブロックを積み上げたようなぎごちなさが目立つようになる。隋代に始まった仏像の写実的な表現傾向は唐時代(7世紀初〜10世紀初)に入るとますますその傾向を強め,人体の統一的表現,理想的な姿を写しあげることに成功し,中国彫刻史上の黄金時代を迎えることとなった。唐代に入っても造営が続けられた竜門石窟の奉先寺大仏は国家的事業としてつくられたものだが,高さ13mの本尊盧舎那仏坐像を初め左右の脇侍眷属像が,ほとんど丸彫りで彫り出され,写実を基礎とした理想美を現出している。こうした表現は玄奘三蔵や王玄策などインドを訪ねた人々などによって紹介されたグプタ彫刻の流入によって,唐の彫刻が新しい出発をしたことを物語っており,日本の白鳳末期から天平期へかけての彫刻も,こうした様式の影響下にある。また盛唐期に入ると空前の大帝国を築き上げた唐王朝の性格を示すように,装飾意匠などに東西文化の交流の影響が認められ,彫刻は一層の豊満優美な傾向を見せるが,晩唐期に入ると,写実が極端になり,人間臭の強い頽廃美をつくり上げている。この傾向は宋代に入ると,さらに強まり,自由な表現がたやすくできる土を材料とした塑像が流行し,親しみやすい,現実の女性美を追求する菩薩や天部像が生まれる。元時代に入ると仏教の一派たるラマ教が信仰され,多面多臂のグロテスクな像がつくられるが,彫刻的には衰退の一途をたどることになった。
【朝鮮】中国に波及した仏教が朝鮮半島に入ったのは三国時代,高句麗や百済にあっては4世紀後半のことで,地域的に中国とはやや遠い新羅では,それより1世紀半も遅かったとされるが,それは公的に認められた時期ということで,ほかの2国に比べてそれほど遅れていなかったと想像される。北にあった高句麗が北方中国と関係が深く,百済はむしろ南朝と結びついていたらしく,新羅はその両方から影響されていたし,それぞれ独特の特色を示す像もあるが,一般的には3国共通して北魏末から東西魏ころの中国の様式を受けた像が多く,3国それぞれの属するところをはっきり区別することはかなり難しい。中国の重厚・厳格な表現に対して,中国には見られない温雅・繊細な感覚をもった彫刻が多く,中国にはあまり見られない半跏思惟像がたいへん多いことも特色である。日本への最初の仏像の受容が百済からであったことでも知られるとおり,日本の上代彫刻は中国直接ではなく,半島を経由したものであることは言うまでもなく,両国の仏像の類似によっても交渉関係の長く密接であったことが確かめられる。韓国中央博物館の2体の半跏像は,こうした三国時代の代表作である。
7世紀半ばに新羅が半島を統一すると,唐の文化を直接受容することになるが,8世紀半ばに造立された慶州石窟庵の石仏はその代表的な例で,均整のとれた堂々たる体躯や秀麗な容貌は,まさに唐の盛期の様式をそのままに受容したものである。10世紀前半に成立した高麗王朝も仏教に帰依深く,造像も多かったが,その前半こそ新羅彫刻の余映によって多少見るべき作品もあるが,後半にはまったく沈滞の極に達した。
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