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●趙匡胤 ちょうきょういん

アジア 中華人民共和国 AD927 

 927〜976 宋朝初代の皇帝太祖(在位960〜976)。河北省固安県の人。父趙弘殷は後唐禁軍の将官であり,その第2子である。彼は後周の世宗に従い,武功をたて,殿前都点検となった。契丹が後周に侵入したので軍を率いて陳橋駅(開封の北郊)に陣したが,配下の将卒に推戴され,開封に帰り恭帝の禅譲を受け,皇帝となり,国号を宋と改め(960),開封を都とした。天下統一のため五代以来の独立国を征服し,呉越・北漢を除くのみとなったが,統一前に50歳で没した(弟太宗により弑虐されたという説もある)。太祖は五代の仮父子結合関係を君臣関係とする支配体制を否定し,独裁君主による中央集権体制を確立し,武断政治を解体して文治主義を推進した。節度使に対しては牙軍の養成を禁じ,有力な牙軍は中央の禁軍に改編して天子の直属とした。さらに節度使の支配を縮小し,しだいに節度使を廃してその後任に文官を配置した。節度使の財政権をとりあげ,転運使を置き,禁令を定め,帳簿を厳重に調査させた。また,官吏の権限を分散させ,中央では中書省,枢密院,三司を分立させ,天子の直属下に置いた。宋初には中書・門下・尚書の三省長官は名誉的散官にすぎず,実際には同中書門下平章事(宰相)と参知政事(副宰相)の合議制によって事を議し,決裁は天子が行った。唐代の道に代わり路を置き,その実際上の長官転運使を全国の要地に置き,地方租税を中央に送らせた。また,科挙制を改革し,殿試という皇帝自らが行う試験を加え,進士登第序列の上に天子の意志が反映するようにした。彼は武人の出身にもかかわらず,文治主義の政治をすすめ,あらゆる方面に穏和な方法で着実に所信を遂行し,中央集権の実をあげ,それ以後1000年の近世的独裁君主体制の基礎を固めた。

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