●チュニジア
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北アフリカの地中海に面した共和国で,東はリビア,西はアルジェリアと国境を接している。面積16万3,610平方km,人口873万人(1996年)。首都はチュニス。原住民はベルベル人であるが,前12世紀ごろから沿岸地帯に住んでいた。前9世紀に港町カルタゴが建設された。その名はフェニキア語で「新しい町」の意味で,現在のチュニスの近くにあり,都市国家として発達し,前6世紀ごろから地中海西部の貿易の中心として繁栄した。カルタゴはシシリー島にも領土を拡大していたが,ローマが前3世紀にカルタゴの征服を企て,いわゆるポエニ戦争を始め,カルタゴはシシリー島を失った。しかし,カルタゴの将軍ハミルカル=バルカスはスペイン征服を企て,その女婿が前227年スペインにカルタマナ(新カルタゴ)を建設し,ローマと和平条約を結んだ。ハンニバル(ハミルカルの子)はローマに対する復讐の機会を待ち,前218年イタリアに侵略した。第2ポエニ戦争(前218〜前201)の開始であったが,結局ローマの将軍スピキオに敗れ,カルタゴは凋落した。しかし,貿易港としてのカルタゴは栄えていたので,ローマの攻撃の的となり,第3次ポエニ戦争(前149〜前146)で,都市国家としての勢力は崩壊してしまった。前44年に新しい町が建設され,ローマの支配下で貿易港として存続したが,紀元439年からヴァンダル人の,そして6世紀にはビザンチンの支配下に入った。東方から進出してきたイスラーム教徒のアラブによって,カルタゴは698年に破壊された。アラブ人は670年にアル=カイラワン(カイルアン)を,この地方の首都として建設した。原住民ベルベル人もイスラーム教徒となり,アラブの支配下であったが,やがてベルベル人は反乱を起こし,972年からこの地を統治していたベルベル人のジリド朝が,1050年カイロのファーティマ朝を怒らせたため,アラブの大軍によって征服された。1159年にこの地域はモロッコのアルモハド朝の支配下に入り,ついで1230年ごろからベルベル人のハフシド朝に支配された。14世紀に入るとキリスト教国スペインが,この地域の沿岸を占領したが,やがてオスマン=トルコによってイスラーム圏のなかに回復された。トルコの総督というべきベクのもとで,チュニジアは実質的には独立国といえない地位にあった。そして16世紀にはチュニジア沿岸は海賊によって支配された。海賊に対して英仏伊の海軍が攻撃する一方で,チュニジアはこれらヨーロッパ諸国への巨額な負債のため,多くの面で干渉をうけた。とくに1830年アルジェリアがフランスに支配されて以後,仏伊による植民地化の対象となった。ベクは1867年立憲君主制憲法を制定し,トルコの力をかりて独立維持をはかったが,アルジェリアのフランス軍を攻撃したため,フランスに攻撃され1881年フランスの保護領にされた。
1908年の「青年チュニジア党」結成は,イスラーム的民族主義運動の出現を告げるものであったが,第一次世界大戦後それは近代的な「デストウール党」に発展し,フランスの支配に抵抗して弾圧された。1934年ハビブ=ブールギバが「ネオ=デストウール党」を結成した。第二次世界大戦中ヴィシー政権下にあったため,1942年から1943年5月にかけて戦場となった。そして戦後の独立運動の高まりの中で逮捕されたブルギバは,脱出してカイロに亡命しエジプトの支援を得て,チュニジアの独立運動を指導した。フランスの譲歩で1955年自治協定,1956年立憲君主国として独立が認められたが,1957年7月にブールギバは国王(ベク)のエル=アミを退位させ,ブールギバを初代大統領とする共和国となった。チュニジアはアラブ連盟に加盟し,ブールギバの柔軟な政策により,比較的安定した政情にある。イスラエルとの和平でエジプトがアラブ連盟を除名された後は,アラブ連盟の本部はカイロからチュニスに移された。終身大統領ブールギバはアフリカ指導者の最長老である。
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