●中東戦争 ちゅうとうせんそう
アジア アラブ首長国連邦 AD1948
一般に中東戦争とは、1948年5月イスラエルの建国以来アラブとイスラエル間で戦われた戦争をいう。イスラエル国家を承認しないアラブとイスラエルは、法的には戦争状態にあり、1979年3月26日エジプト1国が戦争状態に終止符を打った。中東戦争の呼称は、当事国双方で異なるが、一般的には、(1)パレスチナ戦争、(2)スエズ戦争、(3)六日戦争、(4)消耗戦争(1969年3月〜70年8月)、(5)第4次中東戦争、(6)レバノン戦争がある。中東地域は、ヨーロッパ・アジア・アフリカ3大陸の連接地域・石油産出地帯・発展途上国地帯という特性から、超大国の中東戦略と当事国の地域戦略が重層する戦略構造下にある。中東戦争は、とくに歴史的・民族的・国際政治・経済的な学際的視点が要請される。
【中東戦争の歴史的背景】前11〜10世紀、栄華を誇ったダビデ・ソロモンの時代も、73年マサダ要塞でローマ軍との最後の抵抗に敗れ、パレスチナから追放された。ローマ帝国はキリスト教を国教と定め、ユダヤ教徒は数々の人種的迫害を被った。16世紀に至り、ルネサンスと宗教改革により、ユダヤ人迫害も下火になり、フランス革命はユダヤ人解放の気運に拍車をかけた。しかし、ビスマルク時代にドイツにおいて反ユダヤ主義が台頭し、ロシアにも波及した。1895年テオドール=ヘルツルは「ユダヤ人国家」を著し、〈ユダヤ人が人種的迫害から逃れる道は、ヨーロッパから脱出して自分の国家を造ることである〉と訴えた。これがシオニズム運動(エルサレムのシオンの丘に国家をつくる運動)のバイブルとなり、1897年第1回シオニスト大会がバーゼルで開かれた。1906年テルアビブに全員ユダヤ人の町が設置され、1911年デガニアに最初のキブツが誕生した。
第一次世界大戦においてイギリスは、パレスチナのトルコ軍を牽制するためフセインと密約を結び、トルコに反乱を起こさせ、その代償として戦後「アラブ国家」の樹立を約束した(マクマホン書簡)。イギリスは、1917年ユダヤ人の連合国への協力を確保するため〈パレスチナにおけるユダヤ人の民族的ホームの設立を好意をもって見、その目標達成のため最善の努力をする〉と約束した(バルフォア宣言)。1919年パレスチナの総人口70万人のうち、ユダヤ人56,000人であった。1936〜39年パレスチナ・アラブ人がユダヤ人の移民停止を要求して暴動が激化した。1938年アラブ人989,000人に対し、ユダヤ人は40万人に増大しアラブ人の土地を買い占めた。1940年イギリスはユダヤ人の移民制限に踏み切った。ユダヤ人の反英闘争は激化し、1947年4月パレスチナの委任統治問題をイギリスは国際連合に委ねた。1947年11月29日、国連はパレスチナ分割決議案を、賛成33・反対13・棄権10で可決した。分割決議により領土の43%がアラブに、56%がイスラエルに与えられ、イェルサレムは国際管理下に置かれた。1948年2月9日アラブ連盟加盟国は、カイロにおいてイスラエル国家樹立の絶対阻止を決議した。米・ソ両国はイスラエル国家樹立を支持した。
【パレスチナ戦争(1948年5月15日〜49年2月14日)】1948年5月14日イギリスのパレスチナ委任統治が終了。翌15日ユダヤ機関の議長ベン=グリオンのイスラエル国家独立宣言の直後、アラブ連盟5カ国(エジプト・トランスヨルダン・シリア・レバノン・イラク)は、イスラエル国家抹殺を目的としてパレスチナに進攻した。イスラエルは人口60万人・総兵力約3万人・小火器や迫撃砲が主な兵器であった。アラブ側は、兵力4万人・戦車と航空機を有し、イスラエルは苦戦に陥った。6月11日〜7月9日の第1次休戦のあいだ、イスラエルは兵員確保・兵器調達・軍の改編を行い、陸海空の国防軍を統一し、攻勢に転じた。7月18日〜10月15日の第2次休戦のあいだ、イスラエルは60万人移民計画を推進し、兵備を整え、10月15日からシナイ半島と北部ガリリー地方に進出した。1949年2月24日エジプト・イスラエルの停戦協定が成立し、以後個別に停戦協定が成立した。パレスチナ戦争は、アラブの敗北に終わり、パレスチナ総面積26,328平方kmのうち、20,850平方kmとイスラエルが全土の80%を占領し、残り20%はトランスヨルダンが占領した。聖都イェルサレムは、旧市街をヨルダンが、新市街をイスラエルが占領し、完全に二分された。アラブ難民は国連推定で725,000人に達し、唯一のパレスチナ領としてガザ地区が残され、19万人にのぼるアラブ難民が殺到した。難民の数は史料によりまちまちで、本数字は“Martin Gilbert『The Arab Israel Conflict』による。
【スエズ戦争(1956年10月29日〜11月6日)】パレスチナ戦争の敗北で反英闘争に走ったエジプトでは1952年7月23日、ガマル=アブデル=ナセル(1918〜1970)を中心とした自由将校団が決起、ファルーク国王を追放した。1954年にはイギリス軍のスエズ運河地帯撤兵協定が調印されたが、エジプトと西欧諸国との関係は悪化した。エジプトはソ連に接近し、1955年9月チェコスロヴァキアから大量の武器購入に成功した。1956年7月23日ナセルのスエズ運河会社国有化宣言は、イギリス・フランスに重大な打撃を与えた。8月3日イーデン首相は、スエズ運河地帯の占領を目的とした対エジプト作戦計画の策定を軍部に命じ、フランスも計画策定に参画した。イスラエルも1953年からチラン海峡が封鎖されたままであり、武力解決を企図していた。10月22日イギリス・フランス・イスラエルによる連合作戦計画は完成した。
エジプト陸軍は総兵力15万人・戦車530両・野砲500門・作戦機255機を有し、シナイ半島に3個師団3万人を配置した。イスラエル軍は兵力10万人・戦車400両・野砲150門・作戦機155機を有した。シナイ半島のエジプト軍を壊滅してチラン海峡の封鎖を排除する目的で、10月29日16時20分イスラエルの対シナイ作戦は開始された。10月31日午後7時、英仏空軍は、エジプト軍飛行機場の爆撃を開始し、英仏軍のスエズ運河上陸を怖れたナセルは、シナイ防衛部隊に運河正面への撤退を命じた。11月5日英仏空挺部隊が、翌6日に同上陸部隊がポートサイド付近に上陸したが、11月6日24時をもって戦闘は中止された。米・ソ両国の強硬な即時停戦要求が奏功し、両国は中東における威信を高めた。スエズ戦争は英仏両国にとり政治的にも軍事的にも失敗であった。イーデン首相は1957年1月9日辞職した。イスラエルは米国・国連の強圧により1957年3月16日シナイ半島から撤兵したが、アカバ湾の航行は自由となった。エジプトは軍事的には敗北したが、政治的には成功を収め、本格的に国内建設に乗り出した。スエズ戦争を契機にイギリス・フランスは中東から脱落し、米・ソ両国が中東における主導権を強めていった。
【六日戦争(1967年6月5日〜6月10日)】六日戦争は、アラブ・イスラエルとこれを支援するソ連・アメリカとの戦略構造のもとに勃発した。1957年7月14日イギリス最後の主柱イラクで共産革命が成功し、クウェートの独立・イエメン革命・南イエメンの反英闘争に波及した。1965年5月14日パレスチナ解放機構(PLO)が結成され、対イスラエル武装闘争が激化した。1966年2月23日シリアで軍事クーデタが起き、ソ連寄りの政権が誕生、1966年11月4日、エジプト・シリアの軍事協定が調印され、1967年1月シリアは防勢戦略から攻勢戦略に転換した。1967年4月11日、ソ連はグレチコ元帥を国防相に任命し中東攻勢に拍車をかけた。4月27日ナセル大統領は、アンワル=サダトをソ連に派遣し、5月15日シナイ半島の兵力を増強し、国連監視軍の撤退を要請、5月22日イスラエル艦船に対するチラン海峡封鎖を宣言した。イスラエルは5月23日予備役の動員を発令し、作戦準備に着手し、6月1日挙国一致内閣が発足し、ダヤン将軍が国防相に任命された。同日イスラエル諜報部隊はマクナマラ米国防長官に開戦の同意を求めた。アメリカはベトナム戦争に本格的に介入し、ソ連の中東攻勢をイスラエルをもって対処させた。6月4日イスラエルは、開戦を決意した。六日戦争は、6月5日午前7時45分イスラエル空軍による奇襲攻撃で開始され、開戦2時間でエジプト空軍は壊滅した。シナイ半島の地上作戦は、6月5〜8日で終了し、ヨルダン川西岸地域は、6月5〜7日で占領。7日午前10時15分イェルサレム占領の報に、イスラエル人は踊った。6月9日〜10日ゴラン高原を占領し、10日12時30分国連安全保障理事会は停戦決議を可決した。六日戦争は、(1)アラブ領土の占領、(2)アラブ難民の発生、(3)旧イェルサレムの占領、(4)スエズ運河の閉塞、(5)イスラエルの国際的孤立化などをもたらした。
【第4次中東戦争(1973年10月6日〜10月24日)】1967年11月22日国連安保理事会は、(1)六日戦争によるイスラエルの占領地撤退、(2)中東地域の国際水路の航海自由の保障、(3)避難民問題の公正な解決などを決議(国連決議242号)したが、未解決のまま第4次中東戦争に突入した。1972年7月18日サダト大統領は、国内のソ連人追放を宣言し、アメリカへの傾斜を強め、同年10月26日対イスラエルの限定戦争を決し戦争準備に着手した。1973年1月から外交努力を重ね、有利な国際環境の醸成により開戦3週間前までには、100カ国以上の開戦やむなしの支持を取りつけた。サダト大統領は、“エジプトが敗者でイスラエルが勝者である限り、アメリカはエジプトを助けるため何もできない”とのキッシンジャー国務長官の意向を承知していた。エジプトの軍事戦略は、開戦24時間で対イスラエル絶対優位を確保し、機を見て外交交渉に移す戦略であった。1973年2月エジプト国防相は、シリアを訪問、対イスラエル連合作戦計画を概定した。1973年8月末サウジアラビアは石油戦略の発動に同意し、エジプト・シリアの戦争指導を有利にした。1972年イスラエルは、エジプトのソ連人追放の状況を見て、戦争の機は遠のいたと判断し、国境兵力・国防予算を削減し抑止戦略を強調した。イスラエルは、“エジプト軍はスエズ運河渡河の初動において撃破されるであろうから、敗北を承知で開戦することはないであろう”と楽観した。1973年5月エジプトの開戦の兆候を察したイスラエルは、動員を下令し戦争に備えたが、エジプトは開戦を延期した。イスラエル国民は、軽易な動員下令を批判した。1973年10月6日午後2時エジプト・シリアは、イスラエルに対する奇襲攻撃を開始した。エジプト軍のスエズ渡河作戦は成功し、シリア軍のゴラン高原の攻撃も開戦当初優勢のうちに進展した。イスラエル軍は、まずシリア軍の進攻を阻止したのち、10月15日スエズ運河正面で反撃に転じ、スエズ市方向に南下しエジプト第3軍の背後を攻撃した。アラブ産油国は10月11日から石油戦略の発動を検討し、10月17日「アラブ石油輸出国機構10カ国石油相緊急会議特別決議」を可決した〈1973年9月の石油生産の5%以上を毎月削減し、国際社会が占領地域の放棄をイスラエルに強いるまで、あるいは各国の生産がアラブの民族的義務に関する決意なくしてこれ以上の削減を許さないところまで、削減を続ける〉。国連安保理事会は、10月24日午前9時発効の第2回の停戦決議を可決した。戦後米国主導の単独和平交渉により1978年9月17日、キャンプ=デーヴィッド合意が成立し、1979年3月26日エジプト・イスラエル平和条約が調印された。
【レバノン戦争(1982年6月6日〜9月28日)】1982年4月25日イスラエルは、エジプト・イスラエル平和条約にもとづき、シナイ半島をエジプトに返還したが、問題のパレスチナ自治交渉は基本的対立を残し暗礁に乗りあげた。PLO 本部はベイルートに所在し、対イスラエル人のテロ事件は、開戦1年間で290件にのぼった。イスラエル軍は、北部ガリリー地域の安全確保の目的をもって、6月6日約3個師団がレバノンに進攻した。西ベイルートを包囲したイスラエル軍は、8月4日同地に突入し、6,900名のPLO 武装勢力は8カ国に国外退去した。9月1日レーガンの中東和平案が堤示され、9月6日〜9日アラブ首脳会議でフェズ憲章が採択された。パレスチナ問題について、アラブ・イスラエル双方は、現在なお(1)イスラエルの生存権、(2)PLO の承認、(3)ヨルダン川西岸・ガザ地区の返還、(4)イェルサレムの帰属、(5)アラブ側の交渉当事者、(6)パレスチナ国家建設をめぐり対決を続けている。
〔参考文献〕田上四郎『中東戦争全史』1981、原書房