●中国残留孤児問題 ちゅうごくざんりゅうこじもんだい
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中国残留孤児とは、1945年(昭和20)8月、ソ連の対日参戦とそれに続く日本の敗戦で混乱を極めた中国東北部(旧満州)において、家族にはぐれたり置去りにされたりして中国人に育てられてきた日本人の子女をいい、その数は8,000人とも、1万人を超えるとも言われている。
【残留孤児発生の原因】日本敗戦時の在満日本人総数は約155万人と言われており、その帰国までの死亡数はおよそ17万6,000人と算定されているが、死亡者のうち約8万人は国策によって半ば強制的に送り出された在満日本人開拓民であった。敗戦直前の開拓民数は約27万人(開拓自興会および外務省調べ)であったから、その被害がいかに大きかったか、言い換えれば、開拓民が一般在満邦人に比して、敗戦前後の時期、いかに苛酷な条件に置かれていたかがわかるであろう。彼らは押し並べてソ満国境近くに居住していたため、ソ連軍の侵入と同時に日本軍に遺棄され、一切の保護を失ったばかりかソ連軍および一部中国人による虐殺・暴行・飢餓・病気の地獄を彷徨しなければならなかった。この間の事情の一部は『墓標なき八万の死者』(角田房子著)、『麻山事件』(中村雪子著)をはじめ、生き残って帰国した元開拓民の人びとによって記録されているが、幼な子を抱えた母親が想像を絶する悲惨さのなかで、生きるために自らの子を捨て、あるいは売り、さらには殺した例は数限りなくあったと考えられる。残留孤児とは、こうした状況のなかで幸いに生き残り、善意の中国人の手で育てられてきた人たちであり、戦争の傷痕を一身に背負っている人たちであるといってよい。しかし、戦後の日中関係は長い間正常化されないまま、この問題は一般にはほとんど知られることがなかった。
【孤児の来日と肉親さがし】中国残留孤児問題がにわかにクローズアップされたのは、1981年3月、日本政府の招きで孤児47人が肉親さがしのため初めて来日したことによる。“孤児”といっても若い人で36歳、平均40歳という人たちであり、もちろん日本語は分からない。しかし、この人たちが涙ながらに中国語で「生みの親に会いたい」と切々と訴える姿はテレビを通して全国に放映され、日本社会に異常な衝撃と感動を与えた。孤児問題への関心が急激に高まり、肉親さがしを援助するボランティアの組織が各地につくられた。政府も影響の大きさに改めてこの問題に本腰を入れることを決め、以後、毎年、孤児を招待すること、中国政府とこの問題で協議を重ねることを約した。1982年3月には第2回(60名)、1983年3月には第3回(45名)の肉親さがしが行われた。厚生省には“中国残留日本人孤児問題懇談会”(円城寺次郎座長)が設置され、1982年3月9日、鈴木首相(当時)は〈孤児を今日まで育ててくれた中国人養父母と中国政府に謝意を表したい〉と述べた。
【急がれる対策】このように、孤児問題は日本朝野の関心を集めたのであるが、その効果は必ずしも挙がっていない。この理由は、第一に戦後50年以上もの経過は、孤児の求める実父母が高齢化(または死亡)しており、手がかりが失われつつあることにある(因みに、孤児と肉親との対面率は第1回60%、第2回70%、第3回50%であった)。第二は、孤児の中国における養父母・家族の問題である。孤児のほとんどは中国人と結婚しており、養父母も高齢化している。幸いに肉親が判明したとして日本に帰国した場合、養父母・家族をどうするか、これは大きな問題であろう。第三は、帰国後の彼らの生活であり、ことばの壁、住宅・習慣の違いは、就職・子弟の就学などと相まって多くの困難を予測させる。現にこれら不適応要因によって中国への帰国や殺人事件までが起こっているのである。さらに、肉親との同居敬遠・離別・相続争い・戸籍問題のトラブルもある。これらを総合的かつ早急に解決するには、一時的かつ感情論に左右される対策ではなく、確固かつ英断的な対策が望まれる。