50音順    検 索

●中国国民党 ちゅうごくこくみんとう

アジア 中華人民共和国 AD 

 1919年,孫文を指導者として組織された中国の政党で国民党と略称するが,1912年宋教仁の主導により同盟会が他党と合併して成立した国民党とは区別される。国民党の系譜は,興中会(1894)・中国同盟会(1905)・同盟会(1912年3月)・国民党(1912年8月)・中華革命党(1914)とたどることができる。

【成立と改組】軍閥政治による中華革命党の弱体化,ロシア革命と五四運動に触発された民族主義的意識と政治参加の要求を背景に,1919年10月中国国民党が成立した。成立後,党の組織化と拡充は難航し,孫文は党の強大化をはかり,中国共産党とソ連の接近を契機に党の根本的改組を断行し,1923年11月改組宣言を発表した。

国共合作】1924年1月,一全大会が広州で開催され,共産党員を幹部に迎え国民党と共産党の統一戦線が完成した。活動目標の規定や党理論の整備がなされ,また黄埔軍官学校・農民運動教習所の設置により北伐軍の組織と党勢の拡大がはかられ,翌年7月には広東国民政府が成立した。孫文の死後,早くも反共右派の西山会議派が分裂したが,軍権を握る蒋介石と容共左派の汪精衛により合作は維持された。しかし1926年,北伐の敢行をめぐり党内意見は紛糾し,蒋介石は中山艦事件・党務整理案によって北伐慎重論の左派および共産党を排除し,軍事権力を掌握することで7月北伐を強行した。左派および共産党は,1927年1月武漢政府を樹立し,蒋介石の地位の制限・共産党の参加・労働運動の発展・左派と共産党の指導による政府組織の方針を決定した。一方蒋介石は右派と連合し,4月上海で反共クーデタを断行,南京政府を樹立し武漢と対立した。武漢の国民党左派は共産党の過激な活動に動揺し,南京の軍事力による国家統合をめざして反共化し,ここに国共合作は崩解した。

【南京政府と蒋介石の独裁】1928年12月北伐は完了し,中国は蒋介石政権のもとに統一された。訓政期の開始が宣言されたが,蒋の権力は増大していき,独裁化に反対する党内左派と地方軍閥の反蒋運動を逐次打破した蒋介石は,1931年約法の制定によってその独裁的地位を正当化した。満州事変の勃発は党内の分裂を収拾し,対外的には侵略を続ける日本軍と妥協しつつ地方の共産党根拠地を討伐する政策を採り,対内的には新生活運動により儒教倫理の扶植につとめ,また産業の育成・交通・運輸・通信手段の発達・統治の組織化・通貨の統一に努めるなど,中国の国家的発展を促し,後の内戦終了後の国家統一を促進する基礎を築いた。一方権力は蒋介石に集中し,浙江財閥の資力を背景に藍衣社・CC団を動員し一層独裁化が進められた。

【統一戦線と国共内戦】党内では抗日を重視する救国連合会など,蒋の政策に対する反発が生じていたが,1936年の西安事件を機に蒋は抗日に転じ,翌年共産党の要請を容れて抗日民族統一戦線が成立した。しかし,日本軍の侵攻とともに国民政府が南京・武漢・重慶と移転するにつれ反共派が台頭し,新四軍事件など共産党軍との対立を表面化させ,また,和平派の汪精衛が南京に政府を樹立し分裂するなどにより,抗日体制は弱体化していった。

国共内戦と戦後】終戦後1945年10月,国共両党は蒋介石と毛沢東の重慶会談で協定に達したが,日本軍占領地域の接収をめぐって戦端が開かれ,1946年1月マーシャルの調停によって停戦の合意を得たにもかかわらず国民党は一党独裁を主張し,政治協商会議による連合政府樹立に反対し全面的内戦に転じたが,支持基盤の喪失と党内の分裂により国民党軍は敗北を重ね,国民党は台湾に逃れざるを得ず,1949年12月台北に国民政府が成立した。移転後の国民党は,台湾における政治的支配を確立する一方,非常委員会・中央改造委員会を組織して党の改造刷新を行い,1952年全国代表大会が開催された。1975年蒋介石の死後,蒋経国が後継者となり急速な経済成長を達成したが,1971年に国連を脱退し,日米両国が人民共和国と国交を樹立するなど,大陸との関係や国際的承認をめぐって将来に大きな問題を残している。