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●中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう

アジア 中華人民共和国 AD 

【成立】ロシア十月革命の成功は,中国の先進的知識人(リタイショウ※注1※・陳独秀)らの強い関心を喚起し,リタイショウ李大※注1※・陳独秀らの雑誌『新青年』により啓蒙活動の刺激と影響の下に,北京・上海・天津・済南・長沙・武漢・広州などの大都市の知識分子(学生)の間にマルクス主義への知的接近の動きは急速に広まった。だがその動きを中国共産党結成へと方向づけたのは,コミンテルン特使ウォイチンスキーである。彼は1920年4月に通訳楊明斎を伴って北京大学教授リタイショウ李大※注1※を訪問,リタイショウ李大※注1※を介して上海に陳独秀(『新青年』主編者)を訪問,中国共産党結成の必要を説いた。その結果,上記諸都市に共産主義サークルの誕生をみたが,ウォイチンスキーは各地共産主義組織代表者大会の開催による中国共産党の正式成立という観念を中国共産主義者に吹き込んだ段階で帰国した。中国共産党成立大会(第一次代表大会:以下,一全大会)召集を具体化したのは,1921年6月に相次いで来華したコミンテルン代表マーリンとコミンテルン遠東局代表ニコルスキーであり,その強力な指導下に一全大会は,(中国の最新の定説に従えば)1921年7月23日〜31日に,上海と嘉興南湖(最終日のみ)で挙行された。初日出席のマーリン・ニコルスキーは別として,出席者は毛沢東・チョウコクトウ※注2※ら13人であり(リタイショウ※注1※・陳独秀は所用で欠席),陳独秀を総書記とする中国共産党が正式に成立し,翌1922年7月二全大会でコミンテルン加入を決定し,コミンテルン支部としての中国共産党が誕生したのである。成立時の中国共産党はプロレタリア革命をめざし,労働運動を組織することに主たる関心を示す,教条マルクス主義の党であった。

【党員統計にみる中国共産党史】成立以来22年余りで全国政権を握った中国共産党の,紆余曲折・多難苦闘の歴史を端的に物語るのが,党員統計である。表1は上海人民出版社1983年8月刊『中共党史事件人物録』707頁の統計表を,種々の党文献に散見するデータによって修正補充した一覧表である。

 表1     党員数統計

1921年7月 一全大会 53

1922年7月 二全大会 195

1923年6月 三全大会 432

1925年1月 四全大会 994

1927年4月 五全大会 57,967

1927年大革命敗北後 10,000

1928年6月 六全大会 40,000

1929年9月 六期二中全会 122,318

1934年 300,000

1937年初 40,000

1940年 800,000

1945年4月 七全大会 1,211,128

1947年12月 2,700,000

1949年10月 4,488,080

1950年 5,000,000

1954年 6,500,000

1956年9月 八全大会 10,730,000

1959年夏 13,500,000

1961年6月 17,000,000

1969年4月 九全大会 22,000,000

1973年8月 十全大会 28,000,000

1977年8月 十一全大会 35,000,000

1980年3月 38,000,000

1981年6月 38,923,569

1982年9月 十二全大会 39,000,000

1983年末 40,950,000

 表2は1927年3月現在と1956年6月現在の党員成分表であり,それぞれ五全大会陳独秀報告と八全大会トウ※注1※小平報告に拠る。

 表2 党員成分表

    1927年3月 1956年6月

労働者  53.8% 14.0%

農民   18.7% 69.1%

知識分子 19.1% 11.7%

軍人   3.1%

中小商人 0.5%

その他  4.2% 5.2%

 付記 [1]六全大会当時農民76%,労働者10%(周恩来執筆,六全大会『組織問題決議提綱』)[2]七全大会当時の〈党員の絶対多数は農民及び小ブルジョワ出身者〉(劉少奇七全大会報告『論党』)

【サークル的党からプロレタリア党へ】コミンテルン代表マーリンは,植民地・半植民地の共産党に対して民族ブルジョワジーとの連合戦線結成による国民革命の達成を命じたコミンテルン二回大会(1920年7〜8月)の決議(レーニンとロイのテーゼ)を実行に移す指令を与えられて派遣された身であった。マーリンは中国共産党主義が現実に労働運動に対して無力かつ無縁な状況を認識し,労働運動とも良好な関係をつくり始めていた広州の孫文の国民党に着目し,共産党員の国民党入党(党内合作)による連合戦線のみ許容する,という孫文の意向を知ると,コミンテルンの紀律の名においてまで中国共産党に党内合作による国共合作を強要し,党は三全大会で党内合作方針を受諾した。結果からいえば,国民党の傘の下で労働運動を握るチャンスを与えられた中国共産党は,1925年五州を契機とする中国労働運動の高揚の中で,それまでの宣伝サークル的性格を脱皮しプロレタリア党として急成長を遂げたのである。国民党はマーリンに代わるコミンテルン代表ボロジン(および彼が将来した軍資金)の協力の下に北伐(北方軍閥の討伐)を準備したが,北伐の国民革命軍総司令蒋介石は国民党右派であり,孫文急逝(1925年3月12日)後急速に勢力を伸ばした。北伐進展とともに農民運動が急速に成長し,農民運動の成長は主として中小地主である国民革命軍将官の利害と真っ向から対立し,陳独秀の中国共産党中央は国共合作と農民運動のジレンマに悩み,国共合作の維持と農民運動推進を両立させようというコミンテルンの指示を実行不可能と見,国民党左派との合作維持に汲々とした。そこで蒋介石は,1927年四一二上演クーデタによって一挙に共産党弾圧に転じ,国民党左派の威信も失墜させつつ国民党独裁政権樹立に大きな歩を進めたのである。このときから蒋介石国民党と中国共産党は不倶戴天の敵となり,中国共産党は蒋介石の苛烈な弾圧の下,1927年1年間で6万弱の党員を1万にまで激減させられ,プロレタリア的基盤をほとんど失うという壊滅的な打撃を受けたのである。

【農民の獲得と革命軍・革命根拠地の創建】中国国民党中央執行委員会農民部機関誌『中国農民』1巻1期(1926年1月)の毛沢東「中国農民中各階級的分析及其対于革命的態度」は,人口4億の8割,3億2,000万が農民で,その8割相当の2億5,800万が,〈食うに困り〉革命を必要としていると分析しており,都市プロレタリアート200万と対比すれば,農民の獲得こそ中国共産党復活の鍵とわかるが,表1・表2と付記は,まさに中国共産党が農民の獲得によって再び急成長したことを示す。

 国民革命敗北後の中国共産党は,1927年八七会議で農民暴動路線に転じ,やがてソヴィエト革命の旗色を揚げ,工農革命軍(のち中国工農紅軍)の割拠局面(後ソヴィエト区)を創出するという方針が形成される。これをいちはやく現実化したのが毛沢東・朱徳率いる紅軍第四軍(1928年4月成立)の井岡山割拠であり,その影響下に同様の紅軍割拠が華南農村地帯の各地に形成され,土地革命(土地没収・分配)が断行されて中華ソヴィエト共和国成立となる(1931〜1934)。

 だが華南のソヴィエトは,江西ソヴィエト以下みな蒋介石国民党の軍事力に大敗し,中国共産党は紅軍三大兵力(第一,二,四方面軍)を陝北ソヴィエトに移動(長征)させる過程で(1934〜1936),党・紅軍の9割を失う。毛沢東は長征途上の遵義会議(1935年1月)で指導権を握り,その指導下に中国共産党は党・根拠地の維持・発展下の中国共産党の勝利という構想を変えることなく,抗日戦争開始前にコミンテルンと王明が指示した国防政府樹立と抗日連軍編制という統一戦線方針を,蒋介石を総帥と認める国共合作と解釈替えの上,紅軍八路軍・新四軍,ソヴィエト区を辺区と改称して抗日戦争に臨み,終了時には党員121万,軍120万と各地抗日根拠地を擁して一大勢力となって国共内戦(1946〜1949)を迎え,軍を人民解放軍と改称しつつ蒋介石国民党軍を打破し,1949年10月1日中華人民共和国を樹立した。

 文革の混乱を収束し中国近代化を推進する中国共産党今日の難問は,青年党員の比重低下(1950年の26.6%が1983年は3.34%)をどう克服するかにあるとされる。

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