●中華民国 ちゅうかみんこく
アジア 中華人民共和国 AD1911 清
1911年の辛亥革命によって清朝が倒れ,翌年1月中華民国が成立してから,1949年10月中華人民共和国が成立するまでの中国の国号。なお1949年台湾に逃れた国民党政府は,引き続き中華民国の正統政府を称している。中国は,この約40年の間にますます半植民地・半封建社会の様相を深め,支配層は一層買弁化したが,同時に,それに対抗して民族の独立と近代社会建設をめざすブルジョワ民主主義革命運動が,プロレタリアートの指導のもとに強力に展開し,ついにその目的を達成するに至った。【北京政府時期】辛亥革命は,2000年来続いた中国の専制君主制を倒し,アジアで最初の共和制国家を樹立した点で大きな意義をもつ。しかし現実には革命後に出現したものは,清朝末期に新設された新式軍隊の統率者つまり軍閥の軍事的割拠であり,北京の中央政府はこれら軍閥の首領によって代表され,国会や政党は軍閥政治の飾り物にすぎなかった。北洋軍閥の総帥袁世凱は,辛亥革命を推進した孫文ら南方革命派から権力を奪取して臨時大総統に就任し,次いで列強の財政的援助(善後借款)を受けて軍事力を強化し,これをもって革命派を打倒して(第二革命)独裁権を確立した。やがて彼は帝政復活を企てたが内外の反対に遭い失意のうちに死亡した。袁の死後(1916)北洋軍閥は分解し,子飼いの軍閥将領の間で激しい権力争奪の戦争が繰り返された。まず段祺瑞(だんきずい)の率いる安徽派が勢力を得,ついでソウコン※注1※・呉佩孚らの直隷派が政権を掌握し,さらに張作霖の奉天派が優勢となったが,これらの軍閥勢力の交替の背後には,つねに日本・英・米らの帝国主義列強が存在し関係していた。一方,孫文ら革命派は護法を旗印に広東に革命政府をつくり北方に対抗したが,それも南方の軍閥集団と提携し,さらには依存する場合が多く成功しなかった。辛亥革命は,旧中国社会を根本から変革はしなかったが国民に精神上の解放を与えた。革命後,ヨーロッパの近代思想への傾倒は一段と深まり,儒教を初めとする伝統思想に対する批判が激しくおこった(五・四文化革命)。また第一次世界大戦の時期に,帝国主義列強の中国での活動が一時弱まったこともあって,中国の資本主義はかなりの発展をみせ,民族資本家と労働者の階級が形成された。さらに1917年のロシア革命によって生まれたソ連は,コミンテルンを通して中国革命に指導と援助を与えるに至り,1921年には中国共産党が誕生した。こうしたなかで,孫文らの国民党もそれまでの狭い武力闘争を中心としたものから大衆政党へと脱皮を図るに至り,1924年改組を断行して共産党との合作を実現し,連ソ・容共・労農扶助の政策をとり,反帝反封建の革命目標を明確に掲げることになった。
【南京国民政府時期】国共合作によって国民の力を結集した国民党は,1926年から北伐を開始した。民族資本家・農民・労働者,その他革命的勢力の同盟のもとに行われた北伐軍は,広州を出発して半年たらずのうちに揚子江に達し,揚子江以南の地域を支配下においた。この革命運動の高揚に直面して,蒋介石ら国民党右派(大資本家と地主階級を代表とする)は動揺をみせ,イギリス・アメリカ・日本などの帝国主義列強の支援を得て,1927年4月12日反革命クーデタをおこして上海の労働者を弾圧し,国民党独裁の南京国民政府を樹立した。ここに第一次国共合作は破綻し,中国共産党は華中・華南の内陸農村に革命根拠地を築き,農民とともに土地革命を実行していった。一方,南京国民政府は訓政綱領を公布して政府機関を整備し,行政・立法・司法・考試・監察の五院を設け,孫文の建国方略に従い北伐の完成とともに軍政期は終わり,訓政の時期に入ったとして国民党の一党独裁政治を行った。そしてイギリス・アメリカの支持を得て,経済建設に着手して鉄道・道路などを拡張し,1935年には幣制改革を断行するなどしたが,それらは民族産業の発展に寄与したというよりむしろ官僚独占資本の増大をもたらした。国民政府はまた地方軍閥の統一工作を進める一方,1930年冬から1935年10月まで,5回にわたって江西省瑞金を首都とする中華ソヴィエト共和国を包囲攻撃した。その結果,中国共産党は1935年以後いわゆる西遷(長征)を行い,その本拠を陝西省北部に移した。
【抗日統一戦線による国共合作期】この間1931年以来,日本は東北満州から華北へと侵略を進めた。これに対して中国国民の間には,1932年12月の宋慶齢らの民権保障同盟の結成,1933年5月の馮玉祥らの綏遠抗日同盟軍の抵抗,1935年中国共産党の八・一抗日宣言・同年末の一二・九学生運動,1936年8月全国各界救国連合会の成立など,民主と抗日の国民的運動が広がった。しかし,国民政府は藍衣社などを使ってそうした言論・行動を弾圧し,一党独裁と内戦政策を維持した。そして1936年末には蒋介石自ら西安に行き,張学良らの旧東北軍などに中共地区の攻撃を督促したが,張らは蒋介石を監禁して内戦反対・徹底抗日を要求した(西安事件)。この事件が契機となって第二次国共合作が成立し,抗日民族統一戦線が実現した。抗日戦争は,中国民族の反帝国主義運動(主要な対象は日本)が全面的に押し出されたものであり,この点が国民党との統一戦線の主要な共通目標とされた。1937年7月日中戦争(日華事変)の開始以後,約1年間は国共関係に破綻がなかった。中国共産党は自らソヴィエト政府を取消し,陝甘寧辺区と改め,赤軍は八路軍・新四軍と改称した。1938年3月には漢口に国民党臨時全国代表大会を開き,抗戦建国綱領を定め,各党各派を含む国民参政会を設置し一党独裁が若干緩和された。しかし,その一方で開戦当初から国民政府には日本との妥協・内戦復帰が念頭にあり,それが汪兆銘の重慶離脱・1940年3月の南京傀儡政権樹立となって表れ,1939年以後は,国民政府は辺区包囲体制を敷き,新四軍を闇討ちし,戦争末期には至るところで国共両軍の衝突がおこった。1941年10月には,民族資本家や知識人が民主政団同盟(のちの民主同盟)を結成して,国民政府の政策に反対して内戦防止・政治の民主化を要求した。
【戦後】1945年日中戦争の終了と同時に,アメリカは国共間の紛争をたびたび調停し,1946年1月政治協商会議が開かれ両者の協調が成立したかに見えたが,3月国民党二中全会が政治協商会議の決議を踏みにじり,7月からアメリカ兵器で武装した国民政府軍が解放区の攻撃を開始した。しかし,すでに国民政府に対する国民の支持は失われていたから,1949年7月以後,中国人民解放軍が東北戦線から総攻撃を開始すると国民政府軍はなだれをうって敗走した。国民政府は1949年1月一時広州に移転したが,5月に至って台湾に亡命した。
【台湾の現状】蒋介石は1949年1月いったん下野を表明したが,1950年3月再び台湾で総統に復帰し,蒋介石直系の人々(外省人)をもってその政府を固めた。政治機構は大陸時代そのままを持ち込んだ。国民政府は,孫文の三民主義を国是として掲げ,中国の正統政府を主張して譲らず,国連にも代表を送り安全保障理事会の常任理事国の地位を保った。しかし,1965年ごろから国連加盟諸国のなかから国民政府追放の声が高まり,1975年に至り代表権が中華人民共和国に移るに及んで国際的孤立化の道を歩むことになった。しかし,国内の建設は農村の土地改革を行うとともにアメリカの経済的援助を受けて経済の自立計画を推進し,しだいに農業国から軽・重工業国への脱皮・飛躍がなされ,韓国・香港・シンガポールなどと並ぶ中進工業国として地歩を固めつつある。しかし一方では,狭い国土に1,000万人以上の人口が居住しているうえに,膨大な軍隊と軍備を維持していくための軍事費を確保していかなくてはならないなど,台湾の内包している問題も大きい。
〔参考文献〕橘僕『中華民国三十年史』1943
鈴江言一『孫文伝』1950,東亜研究所
『支那近代百年史草稿』1941
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