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●中華ソヴィエト共和国臨時中央政府 ちゅうかソヴィエトきょうわこくりんじちゅうおうせいふ

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中国共産党は、国共合作の国民革命から国民党打倒のソヴィエト革命へ方針転換してから4年後の1931年11月7〜20日、中央ソヴィエト区瑞金に中華ソヴィエト第一次全国代表大会(以下、一ソ大会)を挙行、中華ソヴィエト共和国臨時中央政府の樹立に成功し、また1934年1月22日〜2月1日瑞金で挙行の第二次全国ソヴィエト代表大会(以下、二ソ大会)により、(第2期の)臨時中央政府を選出、1934年10月中央ソヴィエト区退出後もそのメンバーのまま陝北ソヴィエトに移動(長征)したのである。

【第1期臨時中央政府】一ソ大会選出の(第1期)中央執行委員(全63人)は、1931年11月27日第一次全体会議を挙行し、以下の(第1期)臨時中央政府メンバーを選出した。中央執行委員会主席毛沢東、副主席項英・張国壽、中央人民委員会主席毛沢東、副主席項英・張国壽、外交人民委員王稼檣、軍事人民委員朱徳、労働人民委員項英、財政人民委員トウ※注1※子恢、土地人民委員張鼎丞、教育人民委員瞿秋白、内務人民委員周以栗、司法人民委員チョウコクトウ※注2※、工農検察人民委員何叔衡、(数日後の追加)中央革命軍事委員会主席朱徳、副主席上稼檣・彭徳懷。

 ただし、このうちチョウコクトウ※注2※(在鄂豫皖区)・瞿秋白(在上海)は不在で、司法人民委員は梁柏台、教育人民委員は徐特立が代理、土地人民委員は張鼎丞(福建省ソヴィエト主席)に代わって財政人民委員トウ※注1※子恢が兼任(のち胡海が代理)、のちには財政人民委員は林伯渠に更迭するなどの変更があり、また毛沢東は1932年10月寧都会議までは、中国工農紅軍第一方面軍総政治委員として主として前線で活躍、政府主席の副主席項英が代行した。寧都会議総政治委員は毛沢東から周恩来に更迭、毛沢東は瑞金から二日の距離の福建長汀で4カ月“休養”ののち瑞金に帰還、1933年4月から長征開始まで政府主席としての職務に専念する。

【第2期臨時中央政府】二ソ大会選出の第2期中央執行委員(175人)・候補中央執行委員(36人)は、1934年2月3日挙行の第一次全体会議において、以下の(第2期)臨時中央政府メンバーを選出した。中央執行委員会主席団:毛沢東・項英・チョウコクトウ※注2※・朱徳張聞天・博古・周恩来・矍秋白・劉少奇・陳雲・林伯渠・トウ※注1※振詢・朱地元・トウ※注1※発・方志敏、中央執行委員会主席毛沢東、副主席項英・チョウコクトウ※注2※;人民委員会主席張聞天(洛甫)、外交人民委員王稼穡、軍事人民委員朱徳、労働人民委員トウ※注1※振詢、土地人民委員高自立、財政人民委員林伯渠、国民経済人民委員呉亮平、糧食人民委員陳潭秋、司法人民委員梁柏台、内務人民委員曽山、教育人民委員瞿秋白、工農検察人民委員項英:中央革命軍事委員会主席朱徳、副主席周恩来・王稼穡;中央審計委員会主任阮嘯仙:臨時最高法庭主席董必武。

【臨時中央政府の諸政策】一ソ大会は在上海の中国共産党中央が作成・送付した草案を修訂した土地法・労働法・紅軍問題・紅軍優待決議・経済政策、および瑞金側作成の政綱・憲法を採択した。二ソ大会は、この政綱・憲法に代替する17条の憲法大綱(党中央が作成し1931年12月に公表したものを修訂)と、政府主席毛沢東の報告に基づく紅軍問題・ソヴィエト経済建設・ソヴィエト建設の諸決議を採択した。

 1928年夏の中国共産党六全大会の十大政綱、コミンテルン関連指示、ソ連邦憲法を下敷きに中国革命の体験を加重した、全体に〈左〉傾偏向の強い諸政策である。

 博古・洛甫ら党中央は1933年1月に瑞金に移り、その党史上第三次の〈左〉傾路線は、中央ソヴィエト区(行政範囲は江西省ソヴィエト・福建省ソヴィエト・瑞金直属県)で一層徹底的に執行され、福建事変(1933年11月〜1934年1月)の際の十九路軍との提携失敗などを生み、中央ソヴィエト区の存立条件を悪化させ、中央ソヴィエト区の放棄を余儀なからしめた、と後に批判される。

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